2011年6月10日金曜日

「伝えたいことがあるんだ!」

 作家の池澤夏樹氏は理系の物事に関する理解が深く、難しい話題をわかりやすく読ませてくれる。6/7の朝刊文化欄にエネルギー問題についてのコラムを寄せていた。要約して抜粋してみよう。

〈核エネルギーはどこか原理的なところで人間の手に負えないのだ。それを無理に使おうとするから嘘で固めなければならなくなる。まずは自分たちを欺いて安全と信じ込もうとする。そこに科学的根拠はない。(略)地球上のほとんどすべての事象は原子レベルで営まれている。原子が結びついて分子になり、それらが反応して多くの物質が生まれ、エネルギーのやりとりがある。生命もそこから生まれる。原子より一段階下の核のレベルはまるで違う世界だ。うまい比喩が見つからないほど異質な場。核分裂の連鎖反応が生むエネルギーは化学反応より7桁も8桁も多い(広島の原爆では1キログラムのウランがTNT火薬1万6000トン分のエネルギーを出した)。原子力工学では安定しているものを敢えて不安定にしてエネルギーを得る。拡散している微量の同位体を濃縮し、燃料の中性子線によって核分裂反応を起こす。そのためにプルトニウムのような自然界に存在しない元素も作り出す。原発とは緩慢に爆発する原爆である。このプロセスは必然的に放射性物質を生む。生物にとってまったく異質の毒物だ。我々の身辺にある毒の多くは焼却すれば消える。フグも、トリカブトも、ベロ毒素も、サリンでさえ熱分解できる。しかし放射背物質を分解することはできない。半減期という無情の数字以外の指標はない。
 砒素や重金属など元素の毒は焼却不能だが、体内に入れなければ毒はない。放射性物質は我々が住む空間そのものを汚染する。
 原発が生み出す放射性物質は永遠に保管するしかない。事故になれば大量に放出される。だから、原子力工学では「封じ込め」がキーワードになるのだが、結局のところ、永遠に封じ込めるのは不可能なのだ。数百基の原発を数百年に亘って安全に運転し、かつ廃棄物を安全に保管する能力は人間にはない。(後略)〉

 原発が「緩慢に爆発する原爆」だと理解できたら、それを「推進」する人はいまよりもグッと減るだろう。表現することの大事さをあらためて思う。

 今朝のネットのニュースによると、作家の村上春樹氏がスペイン・バルセロナで行われたカタルーニャ国際賞の授賞式でスピーチを行い、そのなかで福島第1原発の事故に触れ、「日本人は核にノーと言い続けるべきだった」と述べたそうだ。僕の知るかぎり、村上氏が震災後に公の場で語ったのは初めて。早くスピーチの全文を読んでみたい。

 ようやく作家たちが自分たちの言葉で震災と原発事故のことを語り出した。なぜ彼らはもっと早く言葉をもって世に語りかけないのかと、もどかしく思った時期もあったが、意識の深いところに届く言葉をつむぐために、それ相応の情報処理時間を要したのかもしれない。

 前掲の池澤氏のコラムと同じ紙面に、作家・中島京子氏が生まれて初めてデモ(原発反対)に参加した体験談を載せていた。

〈集合場所の渋谷区役所に行ってみると、パレード待ちの人々が代々木公園まで列を作っていた。ミュージシャンの乗る車が演奏しながら先導するので、お祭りの山車を思わせた。「バイバイ原発」と呟くお魚や、「もう燃やされたくない」と泣くウランくん……。プラカードを見るのはなかなか楽しい。小雨の降る中、「No Nukes」の傘の花があちこちで開いていた。(略)テレビや新聞では、海外の反原発デモが報道されていた。ドイツでは25万人が繰り出したとか。日本では、やってないのかなー。ネットでは情報を見つけたが、マスメディアはほとんど取り上げていなかった。
 待てよ。デモは数が勝負だ。人数が増えればマスコミも政府も無視できなくなるはず。興味深い情報も発見した。4月に高円寺で1万5千人を集めたデモがあり、比較的若い人が組織したので、あの、幟を立てて拳を突き上げる昔風のデモではなかったというような。(略)つらいことがあっても耐え忍ぶ日本人の国民性は、震災で世界に称賛されたし、私もすごいと思った。けれど、異論がある時には声を上げないと、大事なことを隠されたり、犠牲を強いられたり、自分の意思に反した未来を選ぶことになったりする。デモはシンプルで合法的な異議申し立ての手段だ。どこの国でも、言いたいことがあれば人は街頭に立っている。(後略)〉

 このコラムのキモは4月の高円寺のデモが多くのマスメディアに無視されたことを、他でもないマスメディアのなかで暴露したことだと僕は思う。

 声や映像と書かれた文章は少し伝わり方が違う。写真もまた別の意味で伝わり方が違うと言えるだろう。方法や効果はさまざまだけど、根にあるのは等しく「伝えたいこと」であり、「伝えたい気持ち」である。アカデミー賞を獲った『英国王のスピーチ』は泣かせる映画だが、なかでも僕がもっとも涙腺を緩められたのは吃音障害のある主人公が絞り出すようにして、「私には伝えたいことがあるんだ!」と言うシーンだった。
 言葉の力を信じて、磨いて、僕もなんとか伝えたい。

※村上春樹氏のスピーチはここで読めます↓。
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html?toprank=onehour

2011年5月29日日曜日

気持ちを寄せる人びと

 5/20〜5/27まで、雑誌の取材でイタリアのヴェネト州に出かけていた。ヴェネトはヴェニスのある州だ。今回の取材対象はスパークリングワイン、プロセッコの産地、生産者、それに「ヴィラでワインを」というイベント。18世紀に建てられた荘園領主の館に50軒のワイン生産者、世界各国からのジャーナリストが集い、セミナーや試飲会が3日間行われた。
 イタリアのイベントらしく、会場の一隅にエスプレッソスタンドがあった。バリスタにエスプレッソ・マッキャートを頼むと、キビキビとした動きでマシンを操り、コーヒーを淹れ、泡立てたミルクを少しだけ垂らして出してくれた。グラッツェと礼を言うと、どこから来たのかと問う。日本からだと答えると、やにわにバリスタの表情が曇った。
「たいへんなことになったな」
 彼は震災のことを言ったのだ。

 このバリスタに限らず、ワインの生産者もスウェーデンやアメリカやポーランドから来たジャーナリストも、じつに多くの人びとが本題(もちろんワインのことだ)の話もそこそこに悔やみや見舞い、励ましの言葉をかけてくれた。

 イタリアに行く前から、このようなことはある程度予想していた。震災後、仕事やプライベートで海外に出かけた人の多くが同様の経験をしたことを聞いたり読んだりしていたからだ。
 予想はしていたが、実際に彼らの共感や同情や激励の言葉に触れると、僕のほうには予想していた以上の感情が湧き起こった。相手は初めて会う人ばかりである。その人たちが会ってすぐ、まだこちらの名前も素性も知らぬうちに、真剣に心を開き、気持ちを寄せてくれるのだ。
 スマトラやチリやハイチやニュージーランドや四川省で被災した人びとに、僕らはこれほどまで心を開き、気持ちを寄せただろうか?
 そこには彼らの宗教的条件反射というべきものがあったと思う。「汝の隣人を愛せよ」を彼らは感情を込めて実践したのだ。しかし、それだけでは説明がつかぬ気がする。彼らの多くの口から僕は日本と日本人に対する高評と敬意と憧憬を聴き取った。曰く、
「ニッポンは素晴らしい国だ」
「ニッポンの人々はとても有能だ」
「世界最高峰の技術を持ったニッポンでさえ原発事故が起こったのだから、よほどのことだったのだろう」
 根っこにあるのが自動車やバイクを作る日本の製造技術なのか、寿司なのか、アートなのか、オタク文化なのか、サッカーの長友選手なのか、あるいは世界と関わった個々の日本人のふるまいなのか、僕にはわからないが、彼らはとにかくその部分をことのほか強調し、繰り返して訴えるように話したのだ。

 正直言って、僕の心中は複雑だった。自国と自国の民を褒められて嬉しい思いもあった。一方で、この人たちは日本を美化しすぎているし、震災の情報も偏ったものをごく部分的にしか受け取っていないじゃないかという思いもあった。ただそれでも僕の心のベースに流れていたのはポジティブな感情、味わい深い感傷だった。言葉にすると陳腐に響くかもしれないが、それは「ひとりじゃない、つながっている感じ」だった。

 僕は今回の震災と原発事故の被災者は直接の被災地以外にも大勢いると何度も言ったり書いたりしてきた。東京に暮らす僕自身も被災したという自覚があり、それでこのブログのタイトルが「目黒被災」になったことはすでに書いた。関西や九州、果ては外国まで、遠くで暮らす日本人やシンパシーをもった外国人のなかにも心情的被災者がごまんといる。これが今回の震災の顕著な特徴ではないかと漠然と感じてきたが、イタリアで経験したことが、それを確信に変えた。
 地球上で多くの人が同時多発的に「わが事として」被災したのだ。自然災害は毎月のように地球上のどこかで起きているのに、なぜ今回にかぎってそうだったのか? 原発事故がセットになっていたこと、過去のどの災害にも増して映像情報が豊富だったこと……さまざまな理由が考えられるが、最大のファクターは「タイミング」だったのではないかと僕は思う。
 世界は大きなうねりの中にあった。パラダイムは「左・右」や「東・西」から「上・下」へと移り、ゼニカネはマネーという不可視のモンスターに転じた。情報も快楽もデマも人間関係も、法を外れた営みでさえ、たいていの物事はパソコンの前にいながらにして手に入るようになった。商品PRがアートになりすまして街を占拠した。精神性や魂は軽んじられ、聖地は行列をつくって写メを撮りに行くところに成り果てた。便利が化けて、化け物になって豊かさを蝕んでいたことを僕らは薄々気づき始めていたのではなかろうか?
 どこかで誰かがパチンと指を鳴らせて、あるいはガツンと小槌をふるって、このへんてこな世の中をリセットしなくちゃならないんじゃないか? でも、いったい誰がやる? にっくき猫に鈴を付けるのはどのねずみだ?
 M9の大地震はおあつらえの「タイミング」で起こった。倫理観は欠如しているが文学的勘は働く某都知事がそれを天罰と呼んで大顰蹙を買ったが、使った言葉が悪かっただけで、伝えようとしていたことの少なくとも一部は正しかったのだ。

 この「タイミング」を僕らは生かすことができるだろうか? 

 イタリアはチェルノブイリ事故後、6基の原発を順次廃炉にし、現在は原発を持たぬ国だが、じつは原発再開の方向で話が進んでいた。それが福島での事故をきっかけに無期限凍結に再度方向修正した。この話はじつはそれほどきれい事ではなく、実際のところイタリアは電力の不足分をフランスなどから調達しており原発依存度は低くない。
 しかし、例えばチーズの原料となるミルクを採るための水牛を飼育している農場では糞と飼料廃材を用いて電力と熱を得る自家プラントが稼働しているのを見た(余剰電力を電力会社に売ることで年間約2億円の収益があるという)。急峻な山の斜面にぶどう畑がしがみつくように広がるプロセッコの銘醸地、カルティッツェ地区では農家のオレンジ色のテラコッタ屋根に混じって、ソーラー発電の黒いパネルが少なからず見られた。
 彼らのほうが少しだけ前を歩いているようだった。

 イタリアで日本から来た僕に気持ちを寄せてくれた人びとのことをあらためて思い出す。
「たいへんなことになったな」と言ってくれたバリスタのもとに僕は滞在中毎朝通ってエスプレッソ・マッキャートを淹れてもらい、飲んだ。それは小さなカップに半分ほどだけ入った、ささやかで、しかし確かなものだった。この一杯に見合う何かを僕は、この「タイミング」を機に持ち合わせることができるようになれるだろうか?

2011年5月17日火曜日

東北の被災地へ(後編)

(前回のつづき)
 長さ100メートルくらいのトンネルのなかを僕らはSさんに従って歩いた。いまは車が通るようになっているが、震災後しばらくは土砂と瓦礫で埋まり、完全に閉塞されて、もちろん往き来もできなかったという。
 トンネルの出口に立つと、われわれの前は海まで続く瓦礫の原だった。右側に、背後の杉林に向かって上っていくにしたがって狭まる三角形の土地があり、その中ほどに木造2階建てのSさんの家が建っていた。1階部分は津波が突き抜けた痕があり、外側に物が当たって傷んだ箇所がいくつかあったが、構造自体はちゃんと残っていた。
 Sさんは3月11日、この家で地震に遭い、外に飛び出して玄関先で津波を目撃し、それが眼前に迫るのを見てから裏手の杉林に走って逃げて難を逃れたのだった。
 Sさんの家の1軒海側の隣家は津波で消失している。逆に裏手の隣家は建物全体に何の損傷もないように見えた。つまり、Sさんの家の1階に津波の到達ラインがあり、その線が被害の有無を分けたのだ。
 1階の駐車場部分から家のなかにお邪魔させてもらった。台所と居間はすでに土砂も瓦礫も片づけられてがらんとしていた。流しに残った蛇口だけがかつてここに人の営みがあったことを告げていた。壁や柱には大人の胸から目の高さに津波の到達したことを示す染みが残されていた。家のなかは消毒剤の臭いがした。水に浸かった場所は消毒剤を撒いておかないと虫がわいたりするのだそうだ。畳が上げられ、壁に立てかけてあったが使い物にはならぬようだった。
 海側の小部屋に、部屋の大きさには不釣り合いなグランドピアノがあった。津波で浮き上がり、転倒していたのを自衛隊員が起こしていってくれたのだとSさんが教えてくれた。蓋を開けてなかを見ると、鍵盤はすべて揃っていたがいくつかは位置がずれていた。鳴らすと湿った音が出たが、元通りの音色を奏でることができないのは明らかだった。
 家財の大半を失ったSさんが、それでもひとつ貴重なものが残ったのよと見せてくれたのはアルミの箱に入った手紙の束だった。それは今年63歳になるSさんが若かりし頃いまのご主人にもらった手紙だった。
 ピアノは正しい音色を失ったけれど、古い愛の記録は残った——。
 またしても僕は痛感した、被災した人の数だけ事情というものがあるのだということを。

 Sさんの家を辞したわれわれは再びトンネルの薄闇をくぐってお寺のところに戻り、避難所の人たちに再び別れを告げて、車に乗り込んだ。
 先導する岡部さんの車は、僕らに大槌町の被災の中心地を見せるべく海辺の激甚被災地へと向かった。

〈又同じころかとよ、おびただしく大地震(おおない)振ること侍りき〉
 元暦2年(1185年)にあった大地震のことを鴨長明は『方丈記』に記している。〈そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌(いわお)われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にただよひ、道ゆく馬は足のたちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廊、ひとつとして全(まった)からず。或いは崩れ、或いは倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るる音、雷(いかずち)にことならず。家の内にをれば、忽(たちま)ちにひしげなんとす。走り出づえば、地われさく。羽なければ、空を飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ〉

 ビルごと津波に打たれ、見るも哀れな残骸となった大槌町役場の前でわれわれは車を停めた。ここで町長以下、多くの職員が地震直後、対策会議の最中に津波に襲われ、落命したのだ。再び降り始めた小雨のなかへ、吉田さんがカメラを手に車を降りていった。僕も自分のカメラを携えて後を追った。
 どの建物も、建築時の強度の差に関係なく、1階・2階部分はズタズタに引き裂かれ、ガラスというガラスは砕かれていた。破られた壁からは断熱材の残骸が吹き流しのように風にはためいていた。
 僕はぐるりと回って360度を眺めてみた。パーツとしてはどれもニュースなどで見たことのある光景のはずだったが、それらが連続し、果てしなく広がるのは想像を絶するインパクトだった。その場に立って自分の目で見ることは、フレームなしに動画で見ることであり、思いのままにズームインもズームアウトもパンもできる。自分の脳に備わった、その特殊な能力が50日前にそこで起こった災厄をリアルに再現していた。

 大槌町を後にしたわれわれは少し南に下ったところにある釜石を目指した。前述の警察庁の調べによると、釜石市は死亡813人死亡、行方不明約540人、避難者は約3610人である。
 距離にして20キロくらい。大槌と釜石は間にリアス式特有の狭い入り江をひとつ挟んだだけなのに、被害の状況はまったく異なっていた。海底の形状や陸の地形、傾斜などによって津波の暴れ方に違いがあったことがわかる。
 釜石のメインストリートは道の両側に同じくらいの規模の個人商店が軒を連ねる、70年代後半からとくに地方都市に多く見られるようになった典型的な商店街だ。ここを襲った津波は高さ2メートル前後であったらしく、商店家屋の1階部分を壊滅させつつも——ちょうど大槌町で見たSさんの家と同じように——建物の構造と2階部分は壊さなかった。使い物にならなくなった商店街には人影もほとんどない。それなのに、一応商店街の体だけは残っていることが、そこの光景を見る者を余計に落胆させるようだった。

 釜石を走り抜け、われわれが帰路に就いたのは午後2時くらいだった。来たときと反対に、ある境界を越えた途端、あたりは春爛漫の美しい東北に戻った。車を運転しながら、C.S.ルイスの『ナルニア国の物語』みたいだと僕は思った。洋服ダンスの扉を開け、吊されたコートをかき分けるようにして奥に進むと、突然、雪原に出てしまう。そこには妖精が支配する異世界が開けており……
 車内では誰もがわれに返ったような、呼吸を取り戻したような、不思議な気分を味わっていた。そして口々に「来てよかったね」「よかったね」「来ないとわかんなかったね」と感想を呟いた。

 遠野の道の駅に再び立ち寄り、よく混んだ食堂で反省会をした。岡部さんは午前中に行った自宅避難の集落の、きちんとケアがなされていないようすが気になっているようだった。まだまだ支援すべき人、こと、場所はたくさんあり、継続することが大事だと話し合った。
 現地組の4人とはここで別れることになった。前夜顔を合わせてから20時間も経っていなかったが、そこにはすでにタイトな絆があるように思えて、別れるのがつらかった。
        *          *
 数日後、吉田さんからメールが届いた。そこには彼が被災地で撮ってきた写真が収められたアルバムのURLが記されていた。僕はそこにまとめられた写真を子細に眺めてから、吉田さんに返事を書いた。

〈見ていると悲惨で苦しいけど、それでもまだまだ見たくなる。不思議な世界だったね。表現ってなんだろう? 伝えるってなんだろうと思わずにはいられない〉

 すぐに吉田さんからまたメールが来た。

〈そうですね。僕ももっと見たくなります。見たことのない世界に対する野次馬的好奇心なのか、現実をこの目で見て、逃げずに受けとめたいからなのか、写真に携わる「端くれ」としての使命感からなのか…。いろいろな気持ちが混ざっている感じですね。だから、この写真について何かを言おうと思っても、中心になるものがブレていて、うまく言葉が出てきません。ただ、この目で見ておいてよかったという思いは変わりませんが。そういえば、僕はエッセイストとしても伊丹十三が好きなんですが、本の中にこんな言葉がありました。
『逃げないこと 現実を見ること 自分が見た現実に対して正直であること』
 この3つで大抵の問題は解決するもんだ、と。それでいくと、現実を目の当たりにして揺れている自分、というのが僕にとっては正直なスタンスなのかも知れません。この「揺れ」の中に、すごく大切なものがあるような気がするのですが、何だか形がはっきりしません。〉

※吉田さんの写真は、下記から見られます(本人、承諾済み)。
http://gallery.me.com/panda_yoshida#100119

2011年5月12日木曜日

東北の被災地へ(中編)

(前回のつづき)
 津波が家々を押し潰し、流し去った後の映像は震災後いく度となくTVなどで見てきた。見て、すでに知っている気になっていた。そこには土砂や建材や、車や船や漁具や、家具や畳やドアや窓ガラスや、家電や衣類や食器や玩具などが引き波にばらまかれたままの姿で残っているということを、われわれは現地に来る前にすでに知っていたはずだった。
 しかし、目の前に3Dで広がる現実は「知識」や「二次情報」とはかけ離れたまったくの別物だった。うまく伝わるかどうかわからないけど、そこには「意思」とか「感情」のようなものが含まれているようだった。その感情に名前を付けるとしたら、「怨」とか「恨」ということになるだろうか?
 警察庁のまとめによると、5/7現在、大槌町の被害状況は、死亡751人、行方不明が約950人。約5500人が避難している。
 ところが不思議とそこから「死」は感じられなかった。先ほどまで見てきた春爛漫の景色から感じた「生命力」や「希望」はいっさいここにはなかった。その意味で、きわめて「絶望的」な眺望ではあったが、崩壊した家の壁に赤いペンキで×印がされている(それは遺体が見つかったことを意味する)のを見てさえ、「死」の影は色濃くなかった気がする。なぜそうなのか、それは僕だけの感覚だったのか、にわかにはわからない。

 悪臭のことを書いておかねばなるまい。瓦礫の原はいたるところから魚の腐敗したような強烈な悪臭が立ち上っていた。水産加工工場の冷凍庫がやられて、保管されていたものが腐っているというのは報道で見知っていたが、もちろんTVや新聞から臭いは立たない。嗅覚はもっとも簡単に麻痺するというが、これに麻痺するには相当の鈍化が必要そうだ。瓦礫の撤去や泥よけの作業でもこの臭いは大きな障害になるだろう。ましてや、これから気温の上がる季節には……。

 大槌町でまず訪ねたのは津波の最終到達地点から100メートルほど内陸に入った小集落だった。そこは30〜40軒の比較的新しい家屋からなる住宅地区だった。野菜の入った段ボール箱を届けるのを手伝って上がらせてもらった家は、12歳くらいの女の子ひとりを残して誰もが外出しているようだったが、建物も家具もほぼ新品で垢抜けており、壊れた箇所も見あたらず、地震や津波とは無縁に見えた。しかし、集落には商店は皆無で、海岸沿いの商業施設などが壊滅していることを考えると食料も何もストップしていて、外見はふつうの暮らしに見えても中身は激しく被災しているのだろう。午前9時半という時間のせいか、集落にはほとんど人影もなく(ある家の前で大量の洗濯物をたらいで洗っている30代くらいの女性と、別の家の庭で花壇の手入れをしている年配の女性を見たのみ)、5月の朝の陽ざしがさして清々しいようでもあり、しかし100メートル先には例の恐ろしい瓦礫の存在感が厳然とあるという、なんとも奇妙な眺めと気分を経験した。

 つぎにわれわれが訪ねたのは、避難所になったお寺だった。現在、男女それぞれ20数人、計45人ほどがそこで避難生活を送っているということだった。
 お寺は海辺の平地へと下る急斜面の途中に建っていた。路肩に車を停め、入口への坂を下っていくと、軽の乗用車を洗っている若い男性がまず目に入った。避難所で車を洗ってはいけないという法はないが、あまりに日常的なシーンに出くわして、いささか当惑した。
 気を取り直し、「こんにちは」と挨拶すると「こんにちは」と意外なほど軽快な声が返ってきた。
 緊張し、過度に深刻ぶっていたのはこちらのほうだったのだ。被災地に来ることを迷ったのと同様、避難所を訪ねることにも迷いというか不安があった。要望のあった物資を携えているとはいえ、突然押しかけて迷惑じゃないのか? そこに生活があるということは、避難所も当然プライバシーが守られるべき場所のはずである。部外者はそれ相応の手続きとマナーを持って訪ねるべきだろう。

 お寺の入口の前が広場のようになっていて、焚き火を囲んでスチールの椅子が配されていた。入口脇の軒下には水の入ったペットボトルが積まれ、調味料の瓶が並んでいた。われわれの運び込んだ物資よりも一足先に到着したらしい段ボール箱の中身は頑丈そうな靴底をもつ安全靴だった。白いゴム長靴を履いた初老の男性がひとり、箱のなかから靴を取りだしてあらためている。
「そういう頑丈なやつじゃないと、釘とかあって危ないんですよね」と声を掛けると男性は、その通りだと言わんばかりに大きく頷いた。この小さなやりとりで、僕はこの場所への闖入を許可された気がした。
 先に入っていた岡部さんに手招きされ、バッグ類が詰め込まれた段ボール箱を抱えてわれわれもお堂のなかに入った。

 60畳くらいの広さの畳敷きの室内は思いのほか整然としていた。床には寝具がきちんと畳んでまとめられ、人びとが自由に使えるスペースも確保されている。壁際には段ボールやクリアボックスに入った私物が積み上げられている。一方の柱から他方の柱にナイロン紐が渡されてハンガーやタオルが掛けられるようになっている。中央に灯油ストーブがひとつ。統制とか秩序が概ね行き渡っているな、というのが第一印象だった。
 避難者の渉外担当的な役割を担う女性Sさんを紹介された。にこやかでフレンドリーな人だ。われわれが持ってきたものを見せると、Sさんがお寺中に聞こえるような大きな声で「バッグをお願いされた方、届けてくださいましたよ」とアナウンスした。すぐに7、8人の女性が集まって物色が始まった。

 場所の雰囲気に慣れてくると、それまで見えなかったものが見えてきた。一箇所だけ布団が敷いたままになっており、顔色のとても悪い老人が臥していること。お堂のなかには他の避難所で見られるような間仕切りが一切ないこと。ガラス戸を挟んだ外側に廊下のような場所があり、そこにも数人分の布団が並んでいること。
 Sさんの話によると、間仕切りがないのは、避難者たちが誰もその必要を感じていないから。間仕切りについては、戸外の焚き火のところで自衛隊員たちに訊かれた男性たちが同様に「ここは不要だ」と答えていた。これも僕にとっては意外なことだった。ニュースなどで間仕切りがなくて困るとか、間仕切りができてありがたいという話ばかりを聞いていたから。避難所や人によって、ニーズはまちまちなのだ。
 廊下の部分の「別室」については、いびきがひどくてみんなに迷惑をかける人の隔離スペースなのだそうだ。僕もいびきかきだから、避難所に入ったら同じ処遇を受けることだろう。“事情”は無数にありそうだった。

 カバンや衣類の他に、東京から持ってきたものがあった。20代の女性から要望のあった雑誌(「PS」「Spring」「Jille」)。いま流行りの分厚い付録が付いた最新号を受け取った女性はマスクの上の目を輝かせて喜んでくれた。
 被災者とか避難者とかいう言葉は、往々にして個別の人格を埋没させてしまうけれど、実際にここにいる人たちは、当たりまえのこととして、一人ひとりに個性も嗜好も事情もある。支援する側はそのことをつねに肝に銘じなければならない。

 避難所というのは意外と人の出入りがあって忙しい場所である。僕らがいる間にも、マッサージをするボランティア、血圧を測りにきた医療チーム、エクササイズを指導するヨガ・インストラクター、自衛隊員などさまざまな人がお寺に出入りしていた。
 自衛隊は別の隊が2回来た。最初の2人組はバットいっぱいのおにぎりを運び込み(毎日持ってきてくれて助かるとのこと)、人びとから次回持ってきてほしいものの希望を募っていた。メモを覗き見ると、風邪薬の具体的な品名まで書かれていた。そこまで自衛隊がやっているとは知らなかった。後から来た別の2人組みは、避難所の改善要求を人びとに訊いていた。間仕切りについて訊いていたのは彼らだ。避難者からはトイレの下水がつまりがちだから何とかしてほしいという要望があった。

 Sさんから状況を聞き、わずか1時間半ほどだったが自分の目で人びとのようすを見たかぎりでは、ここは比較的恵まれた避難所であるようだった。こっちのほうが快適だからと、小学校の避難所からこちらに移ってきた人もいたらしい。
 ひとつには大きすぎない規模が幸いしたのだろう。元々この近くの顔見知りばかりが集まっているということも有利に働いているかもしれない。

「今回の震災で私は、人は見かけで判断してはいけないとつくづく思いました」とSさんが言う。避難者同士の人間関係の話かと思ったが、そうではなかった。「先週、ある日の夕方、若い男性の2人組が突然訪ねてきたのです。そのうちの1人は眉毛を全部剃っていて、ちょっと怖い感じでした。ものもはっきり言わないし、おっかなかったけど、何の御用ですかと訊ねたら、東京から米やら毛布やらを車に積んできたというのです。すでに米も毛布も足りていると言うと、そんなことを言わないで、積んできたものを見てくれって。私たちを助けようと、一生懸命でやさしいんです。ここの後、釜石のほうまで行くというので、それじゃあ食事をする場所もないからと思って、おにぎりをあげようとしたら、救援に来ているのだから、それは受け取れないって。眉のない子がそう言って、かたくなに拒むんですよ」

 お堂のなかは女性ばかりだった。焚き火のところにたむろしている男性たちの話を聞こうと思って外に出た。
 広場を見守るように立つお地蔵様の手には逆さになった長靴が引っかけてあった。脇の斜面は段々に整地されて墓地になっていた。黒御影石ばかりなのはその石が近くから出るからだろうか。何人か墓参りの人が見える。広場のふちに立って見下ろすと、墓地の下の方から2段は墓石が無惨に倒されていた。そのあたりまで僕が立っているところから垂直距離で3メートルくらいだろうか。そこまで津波が来たのだ。海に向かっていったん下った土地は30メートルほど向こうで再びせり上がって堤になり、そこに単線の線路が走っているのが見えた。その線路は視界の右前方でぐにゃりと曲がり、堤から転落して途切れていた。途切れた線路の先には1台の貨車がゴロリと横たわっていた。それもこれも津波の爪痕だった。
 女性たちと比べて、男たちは無口だった。機嫌が悪いとかふさいでいるというのではない。ときどき口を開いては当たり障りのない話か下ネタのジョークを言い合って笑っていた。たいていの男性がタバコを吸っていた。酒は被災してから血圧が高くなって医者から止められていると言う人がいた。
 土地柄、漁師さんが多いのかと思ったが、たいていはお店を持っていた人たちだった。焚き火を囲んだ車座は、男たちのやり場のない思いでよどんでいた。僕の座った背後に板張りの小屋があって小さな煙突が立っていた。それは大工の男性が廃材でつくった風呂場だった。なかを覗かせてもらったが、充分な広さがありきちんとつくられているようだった。どのようにしてそれをこしらえたかを説明する大工氏は照れながらも誇らしげだった。男たちは役割を求めているのだと思った。

 晴れて強い陽ざしが差したかと思うと、一転曇って、小雨が降ってきた。避難所の人たちは口々に「雨だぞぉ」と言いながら、洗濯物を取り入れたり、濡れそうな荷物を軒下に移したりしていた。僕は再びここに統制と秩序を見たような気がした。

 そろそろお寺の避難所をおいとましようと言いだしたとき、Sさんが自宅を見にいかないかと誘ってくれた。Sさんの家は避難所のそばのトンネルの先にあるということだった。
(以下、次回)

2011年5月8日日曜日

東北の被災地へ(前編)

 5/3から1泊2日の強行軍で東北に行ってきた。
 きょうはそのレポートを書けるだけ書こうと思う。

 被災地に活字やワインその他の物資を送るプロジェクトで連携している花巻の岡部慶子さんはじめ、支援活動をしているみなさんと直接会って情報交換することと、岡部さんたちにくっついていって現地の実情を見てくるというのが旅の目的だった。
 妻が同行した。仙台からは吉田タイスケさん&由樹子さん夫妻が合流。吉田さんはこのブログでも「Yさん」として何度か登場している(ガイガーカウンター!)。彼はライフスタイル誌を中心に旅や食やカルチャーの写真を撮って活躍しているカメラマンで、ふだんはパリに暮らしている。実家が仙台市内で、ちょうど今回は一時帰国中だった。

 僕がふだん乗っている車は20年物のオンボロロードスターで、今回のような旅にはいたって不向き、というわけで妻の実家のパジェロ・イオを借りた。事前に岡部さんと連絡を取り、被災地でカバン類のニーズがあると聞いて、60個ほどのバッグ類を家族(僕の実家の家業はカバンの製造卸)や友人から集めて積み込んだ。妻の実家に眠っていた食器類や友人のHさんが供出してくれたクッキングヒーター、それにうちに眠っていた野球のグローブ4つも持っていった。ボールも必要だろうと、中目黒にある馴染みのスポーツ店にいって小学生向けの軟式ボールを買おうとしたら、わけを知った店主が2つ余分におまけしてくれた。

 東京を朝7時に出ようと思っていたが、支度に手間取って、結局8時前のスタートに。朝のニュースでは、東名や関越の渋滞は報じられていたものの、東北自動車道については特に言及されていなかった。この分だとお昼過ぎには仙台に着いてランチを食べられるだろう——。
 まったくもって甘かった。まだ首都高を走るうちから渋滞が始まり、東北自動車道に入って100キロ進むのに5時間を要した。ぎゅうぎゅうになってのろのろと進む車の列のなかには何台かの自衛隊車両やボランティアを乗せたバスもまじっていたが、大半はレジャーを楽しみに行く車に見えた。数日前からTVでは東北行きについて2つのメッセージが流されていた。

「ボランティア志望者が多すぎて収拾がつかなくなっているので控えてほしい」
「沿岸の被災地以外はふだん通りに機能しているので、ぜひ温泉などの観光地には出かけてほしい」

 サービスエリアのトイレに行くのも至難の大渋滞に身動きを奪われた車のなかで、今回は後者のメッセージが特に有効だったようだなと思った。

 加速したり減速したりを延々と繰り返すうちに車は福島県に入った。もともと車の窓は閉じていたものの、開けて風を通すのがためらわれた。それは放射能からわが身を守る当然の警戒心ではあったが、過剰といえば過剰な反応だった。こういう気分の延長に今回深刻な問題になっている風評被害があるのだろう。
 福島県に入ってひとつ発見したのは、高速道路の路面がひどく傷んでいることだった。橋の前後のつなぎ目部分に多いのだが、段差があって、何度も車が跳ねるようになった。高速道路の路面は滑らかなものだという先入観があるから、ハンドルを握る手に衝撃が走るたびに肝を冷やした。路面には補修箇所がパッチワークのように点在していたから、これでも震災後にずいぶん直した後なのだろう。多くの区間で制限速度が時速50キロにされていて、それも渋滞の一因になっているようだった。

 今回の東北行きを決行するにあたっては、ずいぶん迷いもあった。
 先述のような「行くべき理由・目的」があり、支援物資を運ぶとはいえ、動機のひとつには「この目で被災の現場を見てみたい」という好奇心があった。瓦礫や汚泥の除去を手伝うわけでもない者たちが高々好奇心ごときのために、のこのこと被災地を訪ねていっていいものか。
 一方で、メディアの仕事に携わる者の端くれとして、“事件の現場”を見ずしてその本質は語れないという強い思いもあった。
 もうひとつ、僕を東北行き決行のほうに強く引いたのは、16年前の阪神淡路大震災のときの後悔の念だった。あのときの震災も僕は東京で知った。兵庫県は故郷でもあった。が、結局被災者を支援することも被災地に行くことも何もできなかった。
 職業的好奇心と使命感と悔悟の念が「行っても迷惑なだけ」という危惧の念を凌駕したのだ、少なくとも僕の場合には。
 同行した3人にもそれぞれに迷いと思いがあったと思う。

 岡部さんと会う約束をした北上市内の飲食店に着いたのは午後7時半だった。

 翌朝、6時に起床した。天気は曇り。窓から外を眺めていると駐車場を大きなニホンザルがのっそりとよぎっていった。前夜われわれが泊めてもらったのは〈さん食亭〉というレストランの2階の広間だった。ビジネスホテルや旅館に泊まることもできたのだが、どうもその気になれず、岡部さんに無理をお願いして、その場所を都合してもらった。〈さん食亭〉のオーナーのTさんは、岡部さんが取り組んでいる被災地支援活動のボス的存在で、震災直後からこの店の店内が、物資の受け入れと仕分けと保管の拠点になっていた。僕らが泊めてもらった広間には新品の寝具セットが10人分用意されていた。これからも長く続くであろう活動のためのものだと聞いた。
 7時前には岡部さんとTさんの娘のヒロミさん、ヒロミさんの1歳の息子のユウサク君、いとこのカズエさんが〈さん食亭〉にやってきた。7時過ぎ、われわれ4人を加えた8人は2台の車に分乗し太平洋岸の町、大槌町を目指して出発した。

 小1時間のドライブで遠野の道の駅に着いた。ここでトイレ休憩を取り、ランチ用の食物を買う。内陸部と沿岸部の中間に位置する遠野は震災直後から自衛隊の中継拠点になり、物資がどんどん運び込まれたことから、いまもモノが豊富で、わざわざ花巻や北上から遠野まで買い物に来る人もいるほどだという。道の駅の駐車場には、ボランティアを運ぶ何台ものバスが停まっていた。一般車両もたくさん出入りしていたが、被災地に用がある人たちのものなのか、観光客のものなのかは見わけがつかなかった。館内は人とモノが溢れ、活気があった。おびただしい数の鯉のぼりがポールにも柵にもくくりつけられ、風にはためいていて、カラフルで躍動感のあるそのさまが、またこの場所の活況をヒートアップさせているようだった。

 学生時代から何度か東北には遊びや仕事で来たことがある。多くは今回と同じゴールデンウィークの時期だった。この季節の東北は花々と新緑に彩られ、夢のように美しいことを僕はよく知っている。東京ではとっくに散ってしまった桜が福島や宮城では満開。岩手に来ると、まだ三分咲きから五分咲きで見るものの心をときめかせる。東京では桜の季節には桜の花だけが咲くが、東北では桜も桃も、林檎の花も、木蓮も藤の花もひとときに咲く。広葉樹の新緑のグラデーションをバックに花々が燃えるように咲く山の眺望は、さながら生命の爆発である。清い水が奔流をなす川、田植えを控えて水を満々と湛える水田にも心を洗われる。空気がいいから光がいい。ますます風景がピュアに見える。

 遠野は民話の里として知られる。15年くらい前、ある雑誌で、宮沢賢治がイーハトーブと呼んだ理想郷のイメージを探すという企画があり、僕はこのあたりも取材したことがある。語り部の正部家ミヤさんが方言で語ってくれた物語はいまも胸の奥に残っている。
「むかす、あったずもな(昔あったことですが)……」
 ねずみの団体が参宮ツアーに出かけるが、途中大きな川に出くわす。「先頭のねずみがたぷ〜んと水に入って、みみこぱたぱたおぼこちゅうちゅう……」このねずみの水泳シーンが2匹目以降延々同じパターンで繰り返される。
 カッパ淵でカッパを見たという阿部与一さんにもインタビューした。阿部翁はもうずいぶん前に亡くなってしまったが、彼に描いてもらった夫婦カッパのスケッチはわが家の宝物として大切にとってある。

 お昼用に炊き込みご飯とよもぎ餅を買い込んだわれわれは、再び車に戻って海岸線を目指した。最初の目的地は大槌町。津波で町長と多くの職員が流されてしまい、町の機能が著しく低下してしまったと報道された町だ。本来なら釜石まで国道283号線で出てから海岸線を北上するのだが、そのルートは渋滞が予想されるので、北側の峠を越えるルートを行こうということになった。
 対向車とすれ違うのも困難な狭い山道をしばらく走って標高が上がってくると、さっきまで色づいてみえた風景が褪色し、冬のような色合いになった。この土地はつい何日か前まで麓まで凍てついていたのだ。
 峠を越えた先の山里は彩りが戻って美しかった。点在する農家の前にチューリップやタンポポが咲き、道端には水仙が並んで鮮やかな黄色の花を揺らせていた。被災地を訪れた美智子皇后に避難者が水仙の花を手渡し、皇后がそれを大事そうに東京に持ち帰ったというニュースを数日前に観たのが思い出された。適度に人の手が入った自然美に見とれて、車内の誰もが上機嫌だった。ときどき意識して思い出しておかないと、自分たちの目的地が津波に洗われた被災地だということを忘れてしまいそうだった。

 芝桜が鮮やかな紅とピンクに軒先を染める農家を左手に見ながら通りすぎた直後、視界の右手に場違いな建物が飛び込んできた。自然との調和もなにも無視したような四角い箱の直列——それが仮設住宅であると僕の脳が理解するまでに少々時間を要した。
 瓦礫の原が始まったのはその直後のことだった。
 助手席の妻が突然声を上げて泣き出した。僕と後部座席に乗った2人は「あぁ」とか「うわぁ」といって感嘆詞を吐くばかり。春を謳歌する東北の美観は“ある境界”を境に一瞬にして地獄絵に代わった。
(以下、次回)

2011年4月29日金曜日

コミットメントのとき

 15年くらい前、作家・村上春樹氏は、ユング心理学者・故河合隼雄氏との対談のなかで、このようなことを語った(正確な引用ではなく僕の記憶による大意です。詳しくは新潮文庫『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』を参照してください。あしからず)。

〈いままで僕は世のなかに対してデタッチメント(無関心)できたけれど、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を機に、コミットメント(関わること)でいこうと考えるようになった。〉

 コミットメントの姿勢が彼に『アンダーグラウンド』や『神の子どもたちはみな踊る』を書かせたのだった。

 今回の震災後、僕はしばしばこの“コミットメント”という言葉を思い出す。

 今週、僕と妻は連れだって、映画『ミツバチの羽音と地球の回転』を見にいき、憲法行脚の会主催の脱原発イベントを聴きに出かけた。いずれも、震災前には起こさなかったであろう行動だ。

『ミツバチの——』は、瀬戸内海で進む原発立地計画(上関原発)とそれに反対する祝島の住人の行動を軸に、スウェーデンにおける再生可能エネルギー転換の具体例を加えて構成されたドキュメンタリー映画。福島原発事故以前から一部で話題になっていたが、事故後に観客動員が増えて、追加上映も行われている。詳しくは公式HPを(↓)
http://888earth.net/index.html

 脱原発イベントのほうは、チェルノブイリ原発事故から25年の日(4/26)に合わせて開催されたもので、タイトルは〈いまこそ脱原発の道を歩もう〉。講談師・神田香織さんの講談『チェルノブイリの祈り』、経済評論家・佐高信氏のトーク、神田さん、佐高氏に社民党党首・福島瑞穂さんを加えた鼎談の3部構成になっていた。入場料は1000円。
 神田さんの講談はウクライナ人の原作によるもので、チェルノブイリ事故で消火活動にあたり被曝死した消防士とその妻の凄絶な物語。
 佐高さんは、20年ぐらい前に何度か原稿を依頼したことがあり旧知。久しぶりにナマの姿を見たが、相変わらず元気そうで、軽妙、辛口、やや過激すぎ。政治家や東電のていたらくを一刀両断しながらも、かつては東電にも骨のある経営者がいた話などもしてくれて勉強になった。
 話が逸れるが、佐高氏は「週刊金曜日」で“電力会社に群がった原発文化人25人”を告発・批判しているが、そこには文字通り、原発推進の発言をした人たちに加えて、電力会社がスポンサーをしたCMやイベントに出演した人たち(原発の是非については何も言ってない)までも挙げられて糾弾されている。僕はここで白状するが、その線でいくと、かつて某グルメ系雑誌でオール電化のタイアップページ(2ページ)の仕事を請け負い、原稿を書いた僕も同罪ってことになる。これは弱った、と記事を読んで一瞬当惑したが、自分の心に訊ねてみても後ろ暗いところはない。それは電力会社が提供したTVのお笑い番組に出ていた芸人などと同じ気持ちだろう。批判や糾弾も度が過ぎるとせっかくの毒が効かなくなると思うのだが、どうだろう?
 話は戻って、脱原発イベントのつづき。福島瑞穂さんは、会期中の国会の報告をした。党派を超えていまこそ原発と訣別する方向に動かないと、と力強く語って250人ほどの聴衆の喝采を浴びていたが、もともとがシンパばかりの集まりであることを思うと、少し寂しい気がした。
 イベントのなかほどには、当然のことのように、会場にカンパ袋が回された。そこで集められる義援金の行方も名言されぬままに。わずかな時間で15万円ものお金が集まったと報告があったが、僕(募金に協力せず)はこういう「狎れ」のようなものが、この手の集会を胡散臭くしているのだと思った。せっかくTVや新聞では知ることのできない貴重な情報に触れられるチャンスなのだから、もう少しフツーの人が参加できる配慮というか工夫をすればいいのに。

 脱原発イベントの帰りに「週刊金曜日」の増刊号を買った。書店で立ち読みくらいはしたことがあるが、この雑誌を買うのは初めてだ。
 巻頭に、ルポライター鎌田慧氏の文章があり、とてもわかりやすかったので、引用しておこう。
〈原発を動かしてきたのは、カネだった。カネ以外に、理想や夢や哲学が語られることはなかった。地域にどれだけのカネが落ちるか、それが受け入れの条件だった。農地も漁場も買収された。電力会社と国と県とが、カネにあかして原発の恐怖を圧し潰した。これほどカネまみれの事業はない。電源三法による「原発立地交付金」、周辺には「周辺立地交付金」、政府と電力の「毒まんじゅう」であり、モルヒネ注射。いったん引き受けると、「毒を食らわば皿までも」と増設に期待した。自治体の選挙には、電力とゼネコンとが一体となって、自民党の原発容認候補を推した。電力総連、電機連合、基幹労連などの関連産業の労組が原発推進、ナショナルセンター・連合も原発賛成、その支持政党の民主党も大賛成、与野党癒着、原発翼賛体制が恐怖の原発社会をつくった。〉(鎌田慧「わがうちなる原発体制」、週刊金曜日4/26臨時増刊号)
 
 鎌田氏は弱者の立場に拠ったルポルタージュを多く書いている。僕も一度会ったことがあるが、この上なく純粋で、まっとうな人物である。鎌田氏の著書には『原発列島を行く』(集英社新書)などがある。

2011年4月26日火曜日

それぞれのストーリー

 昨夜、代々木上原のカフェで友だち4人と飲みながら震災の話をしていた。メンバーのうちの2人(YクンとAさん)は実家が宮城。Yクンの実家は仙台市内で難を逃れたが、Aさんの実家は松島で被災した。

Yクン「僕の実家では震災2日目に電気が復旧。オール電化だったから料理もできて、ご近所の人がお湯を沸かしにきたらしい。お袋が弁当屋をやっているんだけど、震災直後に便乗値上げしたと言うんですよ。まったく、あの人、何考えているのやら……」
Aさん「私の実家は海岸沿いの土産物屋。松島は島々が防波堤の役割をしてくれたお陰で、よそよりは被害が少ないけど、3階建ての1階部分は津波でやられました。昔から『松島は守られているから平気』という意識が根強く、それが災いして気が緩んでいた部分もあると思う。町のみんなが避難するなか、私の父は店舗兼自宅に残ると言い張ったそう。建物の3階にいて無事だったからよかったけれど」
 Aさんは震災後1週間ほど実家に帰って家族と会い、津波で泥だらけになった土産物屋の清掃作業を手伝ってきたという。現場でまず感じたのが「臭い」。津波で陸に押し上げられた土砂には少なからず海底のヘドロが含まれていて、乾くにつれて激しい悪臭を放つのだそうだ。重くて臭い土砂は床に均一に積もるのではなく、店の奥の壁に向かって傾斜を成していたとか。土砂の放つ臭気には有害物質が含まれていたらしく、Aさんは喉を痛めてひどい状態で帰京したということだった。
 そうやって個人からしか聞くことのできない具体的な話をシェアしていたら、店のギャルソンのひとりが「じつは僕の実家が福島の相馬で……」と話の輪に加わってきた。
「警戒区域になって立ち入り禁止になる前日の4/21に地元の友だちとガイガーカウンターを持って現地に行ってきたんです。実家のあたりは津波で壊滅していて、家は基礎部分から根こそぎ流されていました。僕らは検問のない山道とかも知っているから、そういう道を走って福島原発まで5㎞のところまで行ってきました(そう言って、iPoneで撮った写真を見せてくれた。瓦礫の山の向こうに原発の鉄塔と建屋が写っていた)。このあたりの放射線量は東京とそれほど変わらないんです。相馬から飯舘に抜けるトンネルがあって、そのトンネルを抜けた途端にグッと線量が上がりました」
 原発周辺の区域を同心円で区切ることの愚は報道でもよく言われているが、一般人でも簡単に検証できるようなことだとわかる。主に3号炉の建屋の爆発(3/14)で放出され飛散した放射性物質が風に乗り、雨に落とされて、原発周辺域に濃淡のあるまだら模様を作った。いまだに濃い部分は濃く、薄い部分は薄い。原発からの距離とはほとんど関係がないのだ。
 ギャルソン氏は、風力発電のプラントを福島に寄付するという、知り合いのアメリカ人富豪と連絡を取り合って、プラン実現のために奔走しているそうだ。彼には彼の重大なストーリーがあった。こうやって一人ひとりと、きちんと向き合って話していけば、東京にいても被災地の実際が見えてくる。話をしてくれる側も、シェアすることで気持ちがいくぶんか軽くなるってことがあるのだろう。

 帰りに乗った個人タクシーの運転手とまた震災の話になった。彼によると、震災直後は電車のダイヤが乱れたこともあって、タクシー利用者が増えたが、その後は、外国人客が去り、関西などからの出張組が減り、商売アガッたりだそうだ。そこにもまた別の被災談があった。

2011年4月23日土曜日

雨の日に、魂について

 10日ほど前の毎日新聞のウェブ版に、被災地の人たちに「いま、あなたの宝物は何ですか?」と訊ねる記事があった。
http://mainichi.jp/select/jiken/graph/takaramono/index.html
 記事の一部を拾ってみよう。
 11歳の蓮斗くんの宝物は、先生が見つけてくれたランドセル。「おじいちゃんがつけてくれたキーホルダーが取れているのは残念だけど、大切にします」。
 伊藤幸さん(86)の宝物は、津波の犠牲になった親戚が以前趣味のパッチワークで作ってくれたバッグ。それひとつだけを持って逃げた。中には財布や薬が入っている。
 木村真喜子さん(48)の宝物は、姉が実家に宛てて書いた封筒の一部。焼け跡から見つかった。
 阿部義雄さん(61)の宝物は、消防隊員だった亡き息子の遺品の腕時計。息子の遺体と対面した父親は泥だらけの時計を持ち帰った。「今もちゃんと動いているんです」。
 佐々木繁男さん(84)の宝物は、胸の中にある思い出。自宅を流され、妻はいまも行方不明だ。
 坂井小雪さん(74)の宝物は、瓦礫の中から見つけた位牌。自宅は土砂に埋まり、諦めかけていたが偶然見つかった。「これだけは持って逃げろと教わっていた」。

“位牌”で思い出すのは、「警戒区域」に指定されて半強制的に避難させられることになった福島第一原発20キロ圏の住民の話。圏内立ち入り禁止が実施される前日(4/21)、TV局の記者に気持ちを訊かれて、まだ圏内に留まっていた年配の男性が答えた。
「本当に困るんですよ、お墓のこともありますしね。お彼岸もちゃんとやってないんだから」
 次に画面に出てきた中年女性は避難先でマイクを向けられ、「とにかく突然のことだったので、何も持たずに出てきてしまって。位牌だけでも取りに行きたいんです」と語った。

 死せる魂とのつながりの証——それが、最高レベルの非常事態においてなお、彼らの貴重品リストの首座を占めていることに僕は衝撃を受けた。

 震災から2週間くらい経ったある日。ツイッターでこんなエピソードを見た憶えがある。保存していないので、詳細はうろ覚えだが、つぶやきの主は被災地で取材中のジャーナリストだったと思う。
〈避難所の人びとの疲労はピークに達していて、だれも立ち上がるのも面倒な状態。ところが、ある晩、ある人が「海のほうでひとだまのような光を見た」と告げると、多くの人がわれもわれもと海のほうに出かけていった。行方の知れない家族の魂かもしれない。たとえひとだまになっていても一目会いたいと思ったようです。〉

 ……と、ここまで書いて、タイピングする手が止まってしまった。きょうは、ブログをうまく結ぶ言葉がどうしても浮かばない。
 魂のことに、軽々にオチをつけることはできない。そういうことだと思う。

2011年4月21日木曜日

ガイガーカウンター

 昨夜はパリから一時帰国中のYさんを囲んで、知り合いの店でワインを飲んだ。Yさんは帰ってくるたびにフランスのエスプリが薫るお土産をくれる。きのうも、キジやウサギの絵が描かれた可愛らしいパッケージのテリーヌや、料理好きのやる気を掻き立てる本格的なブーケガルニがテーブルに並び、みんなが歓声を上げた。
 もうひとつ、今回Yさんが持ち帰ったものがあった。一見おもちゃの携帯電話のように見える、その黄色い外装のポータブル機器はガイガーカウンター(放射線量測定器)。実物を見るのは初めてだ。ウクライナ製で、Yさんが今月初旬に買ったときは270ユーロだったのが数日前には670ユーロに値上げされていたとのこと。測定機の背面に放射線を感知するセンサーがあり、線量を測りたいものの上にかざすと、前面のモニターに数値が出る。さっそくみんなで服の袖やテーブルやワイングラスや額にガイガーカウンターをあて、どきどきしながら数値を待った。何を測っても、毎時0.08マイクロシーベルト前後。報道で見慣れた、ここ数日の都内の数値と変わらない。

 今朝の朝刊で東大教授の藤垣裕子さん(科学技術社会論)が述べていた。
〈(原発事故後)ガイガーカウンターで放射線を測定して、数値をネット上で公開していた人が複数いました。少なからぬ人が、そのデータをもとに、東京を離れるかどうかを判断していたようです。ネットの発達でいろいろな情報が流通するようになって、かえって混乱を招いたという見方もありますが、私はプラス評価をしています。受け身ではなく、自ら測定して、次の手を考えた。市民の科学武装ですね。科学者が出せるのは確率でしかありません。どこまでのリスクを許容するのかを決めるのは社会機構です。同時に、情報をもとに市民が主体的にリスクを判断していく。その両方を協働させて、リスクを管理していくべきでしょう。〉(朝日新聞、オピニオン欄から抜粋)

 一昨日の夕刊には、こんなベタ記事があった。
〈車盗んだ容疑、自衛隊員逮捕 「原発怖くて逃走」〉
 3/13から福島県の郡山駐屯地に派遣され、放射線物質の除染作業の連絡役を務めていた3等陸曹が翌日「原発事故への恐怖心からパニックになって」、駐屯地から官用トラックを盗み、逃走したというもの。
 この男の行動をわれわれは「腰抜け」「職務放棄」と責めることができるだろうか?

 さらに、ここ数日の報道で僕が心痛しているのが、福島市や郡山市、伊達市の小中学校、幼稚園、保育園(計13施設)で、屋外活動が制限されることになったというもの。
 文部科学省が定めた基準によると、該当する13の施設では、校庭や砂場での屋外活動は1日あたり1時間程度にとどめる。手洗いやうがい、帰宅時に靴の土を落とす、登下校時にはマスクと帽子を着用することなどを勧めている。TVには、放課後、教室脇の廊下を使ってダッシュを繰り返す運動部の学生の姿が映し出されていた。学校の廊下は「走ってはならない」場所の筆頭ではなかったのか? 1時間だと、野球もサッカーもゲームをまっとうすることができない。いまの子どもが放課後にどんなことをして遊ぶのかは知らないが、60分のタイマーをかけられ、それなりの放射能を浴びながら「命がけで」遊ばなければならない彼らが不憫でならない。すべての子どもがマスクを着用し、黙して学校への道を歩くイメージは、まるでSFアニメだ。

 Yさんの話に戻ろう。彼は伊達や酔狂でガイガーカウンターを持ち歩いているのではない。彼の実家は仙台。大きな被害こそ免れたものの、心理的な面を含めご家族はダメージを受けているだろう。パリで震災の報に触れたYさん自身も、深く傷ついたことを僕はよく承知している。ガイガーカウンターはYさんの主体性のシンボルであり、これこそが“市民の科学武装”なのだ。

2011年4月18日月曜日

悲しみのプロセス

 数日前、バリ島に住む友人のTさん(女性)がツイッターでこんなことをつぶやいていた。

〈地震から1ヵ月。この間起こった出来事に自分の気持ち、思いはどんどん変化してきた。はじめは、呆然、それから悲しみ……そんで、悲しみの中に日本人の優しさとかいって心の光を探してほっとしたり……そして数日前からは憤り、怒り。今までの自分の無知さ加減も含めて。〉

『すばらしい悲しみ——グリーフが癒される10の段階』(グレンジャー E.ウェストバーグ著、地引網出版)という本がある。著者は病院の嘱託牧師。グリーフとは喪失や死別に際して人が抱く深い悲しみのこと。この本によると、悲しみには段階がある。いわく……
1.ショック状態に陥る
2.感情を表現する(激しく泣くなど)
3.憂鬱になり孤独を感じる 
4.悲しみが身体的な症状として表れる 
5.パニックに陥る
6.喪失に罪責感を抱く
7.怒りと恨みでいっぱいになる
8.元の生活に戻ることを拒否する
9.徐々に希望が湧いてくる
10.現実を受け入れられるようになる

 Tさんのつぶやきを読み直すと、彼女の心の動きが驚くほど正確に、この本に書かれたプロセスをなぞっていることがわかる。Tさんの他にも、最近僕のまわりには「怒り」や「憤り」の感情をもてあましている人が少なからずいる。かくいう僕も、しばしばTV画面に向かって毒突いたりしている。
 このブログの最初から書いてきたように、今回の災害の被災者は、被災地だけにいるわけじゃない。東京にも関西にも九州にも海外にも「災いを被った人たち」が大勢いる。フランスやアメリカやイタリアやインドネシアに暮らす友人たちの無力感や自責の念を知るとき、悲しみというのは現場からの距離に反比例して減じていくものではなく、逆に遠いほど深まることがあるのではないかとさえ思える。
 先ほどの本に書かれた悲しみのプロセスによると、「怒り」の次の段階は〈8.元の生活に戻ることを拒否する〉である。「被災地以外の人は、なるべく普通の生活をして経済を回してくれなくては困る」という言い方が震災直後から過度な自粛への「対語」として繰り返し使われてきた。いかにもまっとうそうなその物言いに触れるたびに「でも本当にそうなの?」「まだもうちょっと先でいいんじゃないの?」と思ったのは僕だけだろうか? 悲しむべきときに、ちゃんと時間を取って悲しむ。感情や感情によって引き起こされる身体反応(泣く、不眠、悪夢、情緒不安定、食欲不振や食欲過多など)をきちんと表に出す。そういうプロセスを無理に短縮しようとしたり、なかったことにしてごまかそうとしたりしていたら、きっと悲しみのプロセスはうまく進んでくれないだろう。8でネガティブなものを出し切れて初めて〈9.徐々に希望が湧いてくる〉に移れるのだと思う。

 一方で、震災後2週間くらいまでの間、メディアで伝えられた被災者の声のなかで僕の耳に一番多く残ったのは、「悲しい」でも「つらい」でも「怖い」でもなく、「くやしい」と「ありがたい」だった。
 くやしさと感謝の念。この2つの言葉には東北人の我慢強くて心根の優しい気質がよく表れていると思う。悲しみのプロセスで「くやしい」に相当するのは6と7だろう。東北人の気質の何かが作用して、悲しみのプロセスの進行を一気に早めたということがあるのだろうか? 
 もうひとつ、しばしば被災地から聞こえてくる言い回しがある。それは、「自分はまだマシなほうだ」というもの。ふだんなら消極的に響くこの言葉が、いまはとても前向きで力強いものに感じられるのはなぜか? これは一考してみる価値がある。

 映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(ラッセ・ハルストレム監督、1985年)は、僕が最も愛している映画のひとつだ。主人公のイングマル少年は、自分に降りかかる不幸の数々を前に「それでも、宇宙船スプートニクに実験のために乗せられた孤独な犬に比べれば、僕はマシなほうだ」と自分に言い聞かせる。

 言うまでもないことだが、生きることはもともと「災い」や「悲しみ」や「死」を内包している。ところがある種のライフスタイルのなかでは巧妙にそういう部分が隠蔽されてしまう。隠されたものに気づかずに一生を終えることは、たとえば東京のような仮想的な街に暮らす者にとっても、とても難しい。

2011年4月13日水曜日

光と闇

 震災後ライトアップを見合わせてきた東京タワーで一昨日の夜から光のメッセージが灯っている。GANBARO NIPPON。昨夜、銀座方面に用があって、車で向かう途中にタワーの脚もとから見上げてきた。
 タワーを運営する日本電波塔に今回のライトアップ話をもちかけたのは照明デザイナー石井幹子さん。メッセージが見られるのは地上150mの大展望台南東側のみ。GANBARO NIPPON の文字は8400個のLED(発光ダイオード)電球でかたちづくられ、電力は太陽光発電でまかなわれている。太陽光発電システムは三菱化学が無償提供したという。(ライトアップは4/16日まで)
 LEDの控えめな光がつづるはかなげな文字には、いつものライトアップとは別の魅力を感じた。脚もとの公園では暗がりに人びとが集い、静かな花見の宴。これまたいつもの賑やかな花見とは違った情趣があった。
 ニュースタイル、案外、イケるんじゃないかな?

 節電・省エネが大命題となる今後の都市デザインを考えるとき、照明デザイナーの果たす役割はとても大きくなるだろう。石井さんはその道のリーダーとして、そのことを充分に自覚して、今回のシンボリックなライトアップを行ったのではないかと思う。
 川柳作家のやすみりえさんが3/22の朝刊で語っていたことを思い出す。彼女は阪神淡路大震災を神戸で体験した。
〈震災後、どのくらいたっていたでしょうか。光を失っていた神戸の街に、明かりのともったポートタワーが見えました。現実を受け入れなきゃと思いながらも、なかなか気持ちを立て直すことができなかった私の心に「復興」という言葉が刻まれた瞬間でした。〉

 話は変わって、このブログに何度も登場している花巻の岡部さんの、今日更新されたばかりのブログから、被災地の最新状況を見てみよう(本人の承諾を得て、抜粋、引用)。

〈気がついたら、震災から1ヶ月経っていました。けれど、現地の方々は「一日も進んでない。津波は昨日のことのようだ」と言います。
 避難所の食事は、いまだに1日2食や、カップ麺・菓子パン・缶詰に偏っているところがあります。それでも、初めの頃よりはずっといい、と言いますが、放っておいていい問題とは思えません。
 あちこちから届く物資も、「全員の分がなければ不公平になるから」という理由で、集積場に積みっぱなしという話も2カ所で聞きました。大きな避難所ほど発生しています。
 人手がないからなのかと思って、自宅避難の方が手伝いを申し入れると「中の人間でやるからいい」と断られたそうです。事情があるのでしょうが、そういったことで確執が生まれるのも心配です。
 避難所宛に郵便や宅急便が個々に届けられるようになってきました。それはとても喜ばしいことですが、ある家族には食料や現金が届き、外出外食もできるようになる。そうじゃない人もいる。そういった格差も広がってきているようです。〉

 こういうレポートを読むと、テレビや新聞から得られる情報がいかに偏り、「きれいごと」になっているかを思い知る。
 疲弊、サボタージュ、嫉妬、確執、格差……多くの人のいとなみと思いが交錯するということでは避難所も外の社会も同じなのだ。「きれいごと」では済まされない、人間の暗部、心の闇、悪といったものが存在するという事実から、われわれは目を背けてはならない。
 光明はきっとある。しかし、道は遠い。

2011年4月12日火曜日

鈍麻する現実感


(4/11記す)
 震災から1ヵ月が経った。最初の地震が起こった14時46分には、各地で今回の地震や津波や火災の犠牲者、避難後の劣悪な環境に耐えられず亡くなった人びとのために黙祷が捧げられた。「震災から○○日」「震災から○週間」「震災から○ヵ月」という節目で時間を区切ることは、当日の生々しい記憶を呼び戻す効果がある一方で、「もうこれだけ時間が経ったのだから、少しはましになっているはず」という根拠のない楽観気分を非被災地の人びとに与える。しかし、現地に入った人の印象を聞く限り、まだまだ被災地は被災したままである。
 そもそも、「震災から1ヵ月」というときの「震災」は、M9の地震とその後にやってきた津波だけのことを言うのであり、その後の無数の余震や避難者の地獄や原発事故やデマや風評被害や生活被災のことは含まれていない。正確にいうなら、「3・11から1ヵ月」なのであって、震災はいまも起き続けているのだ。
 それを如実に示したのがきょうの大きな余震だった。17時16分に起きたその余震は、福島県浜通りを震源地とし、地震の規模はM7.1(4/7の夜に起きた大きな余震と同じ)。福島県の浜通り、中通りと茨城県南部で震度6弱だった。東京は震度4。どこかで、なんらかの新たな被害が出ていることは間違いない。
 それなのに……
 僕は余震が起こったとき、入浴中だった。バスタブにつかって本を読んでいたら、iPhoneのアプリ「ゆれくる」の警告音が聞こえた。まず心に湧いたのはイヤだな、という感情だった。裸だし、濡れているし、だいいちまだ温まってないし、読みかけの本はいいところだった。ずいぶんとわが感性も鈍麻してしまったものだ。壊れてボロボロになった福島原発の真下で大きな地震が起こっているというのに、イヤだなとは思うものの、すぐに遠くに逃げなくちゃとか、集められるかぎりの情報を集めなくちゃとか、思わなかったのだ。
 無力感が、かたちを変えて、育っている。無力感は諦念に向かうときだけ救いがある。無力感が絶望に向かわぬように、自分を支えなくてはならない。

 ツイッターで拡散されていた、被災地で取材するテレビ局のスタッフの話。「本当は現地のリアルを伝えたい。だけど、局からの指示は『明るい話題を出せ』『復興に重点を置け』『ペットで癒しを与えろ』という指示ばかりなんです」これでは、どんどん被災地が“仮想の国”になってしまう。

2011年4月9日土曜日

東洋のポルトガル

 震災から4、5日経った頃、僕はツイッターでこんなふうにつぶやいた。
〈かつての「心貧しい経済大国」を取り戻そうとするから、経済活動の再開を焦り、被災地の復興が遅れる。われわれが戻りたいのは「年間自殺者3万人の日本」なのか? あの津波の引き波とともに旧い価値観やスタイルは流れ去ったと思えばいい。これからは「貧しくても心豊かな日本」を目指すべし!〉

 歴史家で大阪大学名誉教授の川北稔氏が朝日新聞のインタビュー(4/7朝刊)で話していることも論旨は同じである。今回の震災を文明史論的にとらえて語っており、考えさせられる。少し長くなるが、記事から要約・抜粋してみよう。

〈近代国家でこれだけの規模の災害と事故に襲われた例はありません。被災地以外の生活や経済にも大きな影響を与えています。今後、人びとのものの考え方を変え、歴史の方向性を変えるかもしれません。
 近代とは、経済成長を前提にした時代です。社会の土台に「成長はいいこと」「ゼロ成長なんてとんでもない」という発想がある。私は「成長パラノイア」と呼んでいます。この成長を裏打ちしたのが、地理的な拡大と科学技術の発展でした。15世紀以降、西ヨーロッパの国々は食料や資源、労働力を求めて、世界のすみずみにまで出かけていきました。しかし地球には限りがあります。やがて成長は壁にぶつかりそうになりました。それを突破してきたのが科学技術の発展でした。エネルギー問題を「解決」してきたのも科学技術です。石炭から石油、そして原子力へ。科学技術は経済成長を裏打ちする「魔法の杖」でした。自然の脅威から我々の生命や財産を守ってくれるのも科学技術でした。
 ところが今回、それがいっぺんに揺らいでしまいました。科学技術が生んだ原子力発電所が厄災を生み出し続けています。
 人間がつくりだしたものによって、人間が大きな厄災を受けてしまう。その意味では、今度の原発事故は戦争に似ているかもしれません。
 もしかすると科学者は「今回は失敗したが、基本的には原発は安全」と考えているかもしれません。でも一般の人の印象は違います。原発を新たに造ることは、当分無理でしょう。そうすると、「経済は常に成長するべきだ」という考え方を後退させないと折り合いがつきません。
 科学技術が十分に信頼できるものではないということになると、社会的に、もやーっとした、正体のわからない、妙な不安感が出てくるかもしれません。
 自然災害が政治・経済・社会を不安定化させることは歴史を振り返れば何度もありました。たとえば、17世紀のヨーロッパで起きた気温の大きな低下です。ふだんは凍らないテムズ川まで凍るほどで、凶作に襲われ、深刻な経済危機に陥りました。社会が非常に不安定になり、政治的にはイギリスで革命が起こり、フランスでも大きな反乱が起きました。迷信やデマが広まり、いったん消えた魔女狩りが復活したほどです。
 近代世界を1つのシステムとして見る考え方があります。これによると、世界システムは16世紀の西ヨーロッパを中心に生まれました。その後、大西洋をわたってアメリカに重心が移っていくのですが、全盛期の西ヨーロッパ諸国の中でも消長や興亡がありました。先頭を切ったのはポルトガルとスペインでしたが、やがてオランダやイギリスに抜かれてしまいました。
 いま世界システムの重心がアメリカから東アジアに移ろうとしています。もともと東アジアで先頭を切ったのは日本でした。しかし今後もずっと続くとは限りません。日本は東洋のポルトガルになるのか。
 東日本大震災にからんでメディアで語られるのが、18世紀半ばにポルトガルの首都リスボンを襲った大地震と津波です。人口の3分の1が亡くなったといいます。これがポルトガル没落の直接の契機だとみるのは正しくありません。重要なのは、震災前から地位が低下していたところを襲われたことです。
 電力の問題も今後の国のありようを変えるでしょう。電力不足が長く続くとしたら、いまの東京の姿ではやっていけません。このまま首都の電力の回復が遅れたら、他の地域への移転が進むでしょう。こうした動きを逆手にとって、むしろ企業や役所や大学の一部を「地方」に分散して東京の電力需要を減らす。そうすれば全体としての日本の姿もいくらかよくなる、と私は思います。
 予期せぬ事態が人びとを移動させ、国や都市の姿、経済の形を変えたことは世界史の中でも例があります。
 近代国家で、大規模な被災があった後に復興しなかったところはありません。長い目で見れば必ず復興しています。どうか、そこは希望を持ってほしい。
 日本はかつてのポルトガルのようになるかもしれません。あるいはスペイン、オランダのように。世界のトップ、アジアのトップではなくなるかもしれません。ただし、それが不幸かというと、話は別です。現在のポルトガルを見てください。むしろ、ある意味で安定し、人びとは幸せな人生を送っているのではないでしょうか。
 もっとも、それを「安定」と受け止めるためには、我々の価値観、メンタルな部分が変わる必要があります。以前と同じ、「ずっとトップを走らないと不安」ということでは、「被災後」をうまくやっていくことはできないでしょう。〉

「原発事故は戦争に似ている」という表現で思い出すのは、ファンタジー作家、ミヒャエル・エンデの言葉だ。1988年ごろ、僕はミュンヘンまで出かけてエンデ氏のインタビューをしたことがある。当時、世界的な問題になり始めていた環境問題について意見を求めると、エンデ氏は「人類は今、自分たちの子孫を殺す戦争をしているのだ」と答えたのだった。広瀬隆氏の著書が話題になり、反原発運動が日本で盛り上がりを見せた(けれども、けっきょくは原発を止めることができなかった)のとちょうど同じ時代の話だ。

 ポルトガルには3度行ったことがある。スペインへは、つい半年前の取材旅行を含め、10回は出かけた。いずれもいまは貧しく、経済的にはヨーロッパ連合のなかでもお荷物的な存在だが、人と文化と食と景観の魅力は世界でもトップクラスだろう。なかでも人の情緒が豊かであることは、あるいは「凋落の歴史」の産物かもしれない。
 人はかなしみが多いほど人にはやさしくなれる、というのは海援隊の『贈る言葉』の歌詞の一節。日本人の情け深いメンタリティに“ポルトガル化”は合っていると思うのだが、いかがだろうか?

つらなる思い

(4/8記す)
 3.11から4週間が経った。
 昨夜の宮城県沖を震源地とする巨大な余震は、ようやく少しずつ日常と心の落ち着きを取り戻しつつあったわれわれをあざ笑うかのようなインパクトがあった。最大震度は6強。宮城や岩手の人たちは3.11のときとそっくりな揺れで肝を冷やしたという。僕は東京の自宅でソファに座りTVを観ながら、ときどきうとうとしていた。楽天イーグルスの星野監督が仙台の避難所を訪ねたニュースの途中に地鳴りのようなものに続いてゆっさゆっさと揺れがきた。直感が、東京ではない別のどこかでもっと大きな揺れが起こっていると告げた。星野監督のスピーチは途中で遮られ、画面は地震速報に代わった——。
 きょうになってM7.1に改められたが、昨夜の発表では地震の規模はM7.3となっていた。それだと阪神淡路大震災のM7.2を上回る余震だったことになる。停電した家屋は400万戸。ようやく、残り16万戸まできていた電力復旧は、3.11当時の数字に戻ってしまったかっこうだ。
 夜のうちに、パリで暮らすYさん(実家は仙台)からメールが入った。
〈この怒りは何なんだろうってくらい、腹が立ちました。高速道路も開通して、せっかく仙台市中心部も機能し始めた矢先にこの余震。僕が怒るのは全くの筋違いですが、卑怯ないじめっ子をぶん殴ってやりたい気分です……〉

 花祭り(釈迦の誕生を祝う行事)のきょうは、ふたりの古い友人の誕生日でもある。お祝いのメッセージを書いてもつい震災の話題に触れてしまう。
 ふたりのうちのひとりで、長くバリ島に住むNさんは返信メールにこんなことを書いていた。
〈いま起きている災害のなかでも原発にかかわるすべての状況(ひとことでいえば日本の社会状況)には、やはり唖然としつつ怒りがこみあげてきます。社会全体としてはどうも、臭いモノにはフタ的な事なかれ主義が行き渡っているのではないでしょうか。(略)バリに移住した’95年というのは、やはりそんなふうに日本社会のマズイほうの体質が露骨にふきだした年で、いまの状況と奇妙なくらいに似ているなと感じています。日本が嫌になって逃げだすひとも増えるのかなという気もします。〉
 もうひとりのKさんは、大学生時代、夏休みにイギリスでホームステイしたときに、たまたま滞在先した町が同じで知り合い、以来ついぞ再会はしていないが、互いの誕生日のメッセージだけは絶やさず毎年やりとりしているという世にも稀なる間柄。Kさんは僕と同い年の女性。いまは東京にいるがNYやスイスで暮らしたことがある。彼女の返信メールには、こんなふうに書かれていた。
〈(いまの心理状態は)NYのテロの後、モール爆破やタンソ菌ばらまき事件などで異常な緊張感で生活していたのと同じくらいです。でもNYにいた時は、最悪日本に帰国すればいいという逃げ道がありましたが、今はなく、東京人はここで生きるしかないんだなあと腹をくくっています。といいつつ、福島原発が明日爆発するかも、という13日にはさすがに子供をつれて、いとこのいる倉敷に一週間疎開しました。(略)疎開してみて東京で生きる意味、というと大げさですが、人とのつながりや仕事の在り方などいろいろ考えることができました。そういえば、15年ほど前のヨーロッパでのBSE(狂牛病)でもばっちりスイスにいて、今も輸血禁止の身です。あの時も、ある日を境に街中の肉屋から客が消えるというすごい光景を見ました。2012年の予言ではありませんが、今を生きるしかないなあ……と改めて思いますね。となると、どう生きるかが問題かな。〉

 きょうはここで筆を置こうかと(のではなく、パソコンをスリープにしようかと)思ったところに、花巻の岡部さんからメールがきた。彼女は今朝も停電・断水のなか目覚め、北上市の物資保管場所に仕分けに行っていたそうだ。昨夜の余震も尋常ではなく、道路や家屋の被害は本震のときより大きいと現地の人たちは言っているようだ。明日は大槌町へ物資を届けにいくという彼女。メールの最後は、こんなふうに結ばれていた。
〈沿岸に行く前日はいつもうまく眠りにつけません〉

※メールからの引用については、いずれもご本人から了承を得ています。

2011年4月7日木曜日

花より先に菌の話

 今回の地震で震源地附近の海底の地盤は24mも東南東に移動したのだそうだ。驚くべきは、いまも移動が続いていること。どうりで余震が多いわけだ。もともと日本とハワイの距離は年間3㎝ずつ縮まっていると聞いたが、一発で800年分も縮まったということか。

 放射能汚染や風評被害で将来的な品薄が心配される野菜や魚は比較的従来通り店頭に並んでいるのに対し、東京のスーパーなどでここ数日、手に入れるのが困難だったのはヨーグルトと納豆。牛乳はひと頃よりはるかに流通量が回復したが、関西から取り寄せたものなど、見たこともないパッケージが増えた。ヨーグルトが少ないのは原乳の不足が原因なのではなく、計画停電の影響。ヨーグルト製造には通常6時間程度、完璧に温度管理しなくてはならない工程があり(おそらく発酵)、停電があるとそれができないため、生産量が激減しているのだそうだ。もうひとつの納豆については、茨城県産の大豆の被曝……ではなくて、パッケージに使うフィルム(原材料とか内容量が記されたやつ)の工場が被災したため包装ができず、中身の納豆は造れるのに、商品として出荷することができないのだという。せっかく造った納豆の行方が心配になるが、食品衛生法上、表示フィルムのない製品を販売することはできないが、寄付することは問題ないとして、被災地の避難所などに届けられているらしい。
 ヨーグルトも納豆も人間の叡智が生み出した発酵食品であり(というよりも、微生物というこの星の支配者が生み出した食品というべきか)、健康にもよいとされるもの。毎日口にするのを習慣にしている人が多いものだから、これまた生活被災に違いない。夜のワインと同じくらい、朝のヨーグルトを習慣にしているわが家でも重大問題である。

 ここ数日、メディアでよく報じられているものに「災害弱者」の問題がある。被災地では強健な人でさえ、劣悪な環境とストレスに疲れ果てて弱るのに、乳幼児や老人、病人、心身に障害のある人びとなどは尚更である。たとえば自閉症の人はもともと感情を抑えるのが難しい。避難所のような環境ではふだんにも増して叫声を上げてしまったりする。家族は他の被災者への遠慮から、避難所に居づらくなり、さらに劣悪な場所へと移る。ある老人は集団生活に馴染めず、1週間で7箇所もの避難所を転々とすることになったという。幼子が夜泣くものだから、戸外に連れて出てあやす親が冷えて体調を崩す。
 阪神淡路大震災のとき、地震や火災では生き残りながらも、避難所で亡くなった人が約900人いたそうだ。そのうちの4人に1人が肺炎で命を落としたという。水が不足している避難所では満足に歯も磨けず、口をすすぐこともできない。もともとが疲弊しているところに口中の細菌が繁殖し、肺まで降りていって炎症を引き起こす。
 今回の被災地では、瓦礫の片づけに出る人のなかから破傷風が何人か出ている。菌が入った傷自体は指先のちょっとした傷にすぎないのだが、やはり抵抗力が極度に下がっているのだろう。これから、ばい菌たちが好む暖かい季節がやってくることを考えると、被災地の明日はまだまだ明るくない。

 桜前線がどんどん北上している。花見で元気を出そうという発想も悪くない。しかし、花は来年も再来年も咲くだろう。それよりも、いま、目をそらさずに見るべきものがあることを忘れてはならない。

2011年4月6日水曜日

海よ!

 TVの天気予報は全国的に快晴だった。日本地図の上にずらりとお天道様マークが並び、雲はかけらもない。小さな日本といえども、滅多に見られない、「壮観」と呼びたくなるような画面だった。
 被災地も、原発事故で避難を強いられたあの土地も、友や家族の住むあの土地も、そして僕の住む東京の空も、どこもかしこも、まるでなにかのご褒美のような快晴! そして桜の花はまたグンと開いて——こういう当たり前のことを、いまは大げさにありがたがりたい。

 福島第一原発2号機のピット付近から流出していた高濃度の汚染水がよくやく止まったと、いま来たばかりの夕刊が告げている。止まらないより止まったほうがいいのは当たり前で、よろこぶべきところだが、すでに海へ流出してしまった莫大な量の放射線物質のことを考えると、とうてい拍手する気にはなれない。
 かつて原発の施工に携わり、自らの経験から原発の危険性を告発し、1997年に亡くなった平井憲夫という人の書いたものがツイッターで紹介されていた。阪神淡路大震災の直後に書かれたもののようだが、これを読むと、原発のつくりや管理がいかに素人仕事で、いかに杜撰か、また今回の悲劇はじつは15年も20年も前にすでに始まっていたことがわかる。さらには、今回の原発事故の処理がおよそ一筋縄でないことも。
http://ma20da1.posterous.com/48355855
 平井さんの文章には、放射能汚染水の海への垂れ流しがすでに90年代には定期点検のたびに行われていたことが書かれている。
 茨城の沿岸で獲れたコウナゴから規定値を上回る放射能が検出され、放射線濃度の低いはずの沖合いで獲られたボタンエビや金目鯛の陸揚げが千葉の漁港で拒否されたのはいずれも昨日のニュースだが、もしかして、いままではちゃんと海水や海産物の放射能値を量ったことがなかったのではないかと疑われる。

 僕は兵庫県北部の日本海に近い海産資源の豊富な土地で育ったので、魚介類に人一倍愛着があり、東京でも頻繁に食べている。刺身は週5回くらい食べるんじゃなかろうか? だから海が汚染されるのは困るのだ。すでに遠い過去から汚染されていたのだとしたら憤懣やるかたない。

 数日前の新聞に出ていた目の不自由な被災者の話。
 宮古市、鍼灸師多出村伸一さん(54)「自宅兼鍼灸院が流されました。全盲なので、海がザーッと迫ってくるような音から逃れるように夢中で走りました。地震後、息子に町の様子を解説してもらいました。海の音も風の音も、聞こえ方が違う。すっかり変わってしまったんですね」
 
 きっと海の中も、すっかり変わってしまったに違いない。

2011年4月5日火曜日

桜を、ワインを

 今日もわが愛する林試の森公園を走ってきたが、園内の桜は三分咲き。ここ数日は気温が低そうなので、満開まではまだ1週間くらいかかるだろう。

 雑誌やマンガや本に続いて、ワインを被災地に届けるというプロジェクトが次第に軌道に乗りつつある。ことの発端は、先週水曜日、某ワイン関連組織に招かれて、ワインと桜を楽しむ夕べ(桜的には時期尚早だったが)に出かけた際、主催者側のKさんと話したことだった。手短に言うと、「被災地に救援物資としてワインを送ることは是か非か」ということ。もしも是ならば、ぜひ協力したいとKさんは言う。帰宅後さっそく、被災地の状況について問い合わせてみたら、届ける側の自主規制で酒類を持っていくのは控えているとのこと。TVで連日、あちこちの避難所のようすが映し出されているが、そこにアルコールを飲んで酔っぱらっている人の姿があったら、どうだろう? それを観る人たちの過剰反応は容易に想像できる。物資を届ける側が自主規制するのも無理はない。それでも、「飲みたい人がたくさんいるのは間違いない」とのことで、時期と場所を選べばニーズがありそうな感触だった。
 翌日、気仙沼の交通が遮断された地区に物資を運ぶ予定のあるMさんが、僕の問い合わせに応じて、ワインを持っていってみたいとメールをくれた。とりあえず3ケース、Kさんのことろから送ってもらうことにする。
 さらにその後、大きな展開になりそうな話が花巻の岡部さんから飛び込んできた。36歳の若き岩手県議、高橋博之氏(http://hiroyuki-t.jugem.jp/)が被災地・陸前高田市で被災者による花見を企画、その会場にワインを届けてもらえたらありがたいとのこと。この動きはツイッターなどを通じて広く拡散しており、陸前高田で花見の行われる4月17日に全国各地で“同時多発花見”をして盛り上げようというムーブメントになっているようだ。
 都内では花見も自粛の方向である。「被災地で被災者が花見」というアイデアに僕は虚をつかれた。たしかに、花もワインも、心を和ませるものは、被災者の人たちにこそ相応しいのかもしれない。

 フランスワイン関連のKさんに続いて、某ワイン輸入業者など複数の人が「被災地にワインを!」の動きに賛同の意を示し、供出を検討してくれている。僕はワインの力を信じているので、ぜひスムースに被災地に受け入れられ、役に立ってほしいと思う。そのためには、まず、非被災地の人たちの間に「被災地の人たちだって、ワインを楽しんでいいじゃないか」というムードが醸成されなければならない。
「ワインほど一人で飲むのが似合わぬ酒はない」
「ビールは人を攻撃的にするが、ワインは人を友好的にする」
 ワインにまつわる名言・格言は無数にある。適量を飲むかぎりにおいては健康効果も期待できる。不安や不眠を和らげる助けにもなるかもしれない。そして、今回の悲劇が契機となって、東北の人びとの間にワインが劇的に浸透し、将来的に一大消費地になる……なんてことを夢想したら、不謹慎だと叱られるだろうか?

この春も 桜の花の咲くことを よろこびとする かなしみとする

2011年4月4日月曜日

ニューライフ、ニュービジネス

 一昨日、TVのワイドショーが震災後のライフスタイルの変化について東京の人びと(主に主婦層)に取材したものを紹介していた。
 枕元に貴重品や防災セットを置いて寝るようになったという人。靴下をはいて寝るようになったという人。節電のために、コンセントからプラグを抜くようになったという人、電灯を消し真っ暗にして入浴しているという人。遠出をしなくなったという人。外出時にパスポートと小さな懐中電灯を持って出るようになったという人。夕食時の明かりをろうそくに代えたという中年の主婦は、「おかげで、すっかり冷えていた夫との間に会話が戻りました」と顔を赤らめていた。
 きょうのNHKのニュースでも同様のテーマが取り上げられ、通勤手段を電車から自転車に換えた人の話や歩きやすいスニーカーが働く女性たちに売れているという話が紹介されていた。
 都市生活者の変わり身の速さには驚くばかりだ。防災も節電もモードを追うように楽しもうと言わんばかり。このスピードがキープされたままで人びとの意識とスタイルが変わっていけば、根本的な「チェンジ」も夢ではないかもしれない。そうして消費電力が40%くらい減れば、夏場の需給バランスも供給プラスで乗り越えられるだろう。
 震災に遭ったいまこそ、経済を回すために被災地以外の人は普通の生活をしろ、お金を使え、ともっともらしく言う人がいるが、僕にはどうも違和感がある。この違和感の正体については別の機会に述べるとして、震災後のライフスタイルの変化をビジネスチャンスととらえて経済活動を活発にするということなら、僕にもピンとくる。「防災」や「節電・省エネ」「サバイバル」を売りに新商品や新サーヴィスを開発する。あらゆる分野でデザインも重要だ。ファッションの出番がようやくやってくる。食品関係だって災害を切り口にすればいくらでも新商品が出てくるだろう。新生活様式や新マナーを教える職業や資格もありうるだろう。自転車専用道の整備を本気でやれば雇用促進、間違いなし!……(いっそのこと、俺が東京都知事に立候補すればよかった?)

2011年4月1日金曜日

ひとりになって交わる

 震災から3週間が経った。東京は雲ひとつない晴天。
 ベランダのプランターで栽培しているルッコラに白く可憐な花が咲き風に揺れているのを見てハタと思いついた。簡単に栽培できる野菜や花の種を被災地に届けてはどうか? ルッコラは発芽率もほぼ100%だし、生長も早い。葉が出たらどんどん摘んでいってサラダで食べるといい。イタリアでは一種の強壮剤とされているくらい栄養価が高く、ナッティな風味と辛みのある味は病みつきになる。何度か葉を摘んでいくと、やがて薹が立ってきて花が咲き、びっくりするほどのタネが取れる。もともと雑草のようなものなのだろう、強靱なのだ。立派な畑でなくとも、避難所や仮設住宅の前の空き地でどんどん育つだろう。東京では年中栽培できるが、真夏だけは暑すぎてよくない。冬場に育ったものが美味いくらいだから、きっと東北地方の気候にも向いているだろう。震災をきっかけに、東北にルッコラの一大産地ができるなんて、悪くない話じゃないか。

 花巻の岡部さんとの連携で始まった「被災地に活字を!」プロジェクトは、メールやツイッターでの呼びかけに多くの賛同者が手を挙げてくれて、大槌町ルートを始め、3つのルートに今日時点で計27箱を発送することができた。正確な冊数はわからないが、1000冊は優に超えているだろう。最初は仕事で付き合いのある出版関係の人たちに声を掛け、そこからそれぞれの人脈で広げてもらったのだが、僕自身を含めて、本や雑誌に関わる者にも何かやれることはないかと模索していた人が多かったようで、多くの人が嬉々として——という表現は不謹慎かもしれないが——、とにかくひじょうに積極的に関わってくれた。
 なかには「うちは会社単位で同じようなことを考えていて、そっちに本や雑誌を供出するように言われている」というところも数社あった。僕の立場としては、会社は会社でどんどんやってくださいというものだ。ただ、大きなところがやることはそれなりに時間がかかるし、届け先も大きな避難所とか組織ということになるだろう。血管に喩えれば、それは大動脈的な動き。対して僕がやろうとしているのは、毛細血管的な動きだ。
 今後も、被災地の細かなニーズに合わせて柔軟に、継続的にやっていければと思う。
(ツイッターでは、この件に関して随時、情報・作戦を流している。ハッシュタグは、#marukatz )

 以前にこのブログでも紹介した恐山の僧侶、南直哉氏のブログ、「恐山あれこれ日記」(http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/)に、こんなくだりがある。

〈私は、「価値観を共有する」という思い込みとか、「みんな仲間だ」的意識による人間関係をまるで信じていません。価値観を媒介とするなら、その価値観を持たない人を排除するでしょうし、「みんな仲間だ」意識は、事情が変われば、あっという間に蒸発するでしょう。私が信用できる関係は、様々な困難や苦境に直面し、挑戦し、乗り越えていく経験を共に分かちあった人間同士に結ばれる関係です。〉

 今回、いわばなりゆきで「被災地に活字を!」のとりまとめ役をやらせてもらっているが、過去にボランティア体験も皆無で、とにかく日々未知と発見の連続である。最大の発見は「絆」だろう。今回すでに20人を超える人びとに携わってもらっているが、僕が強い絆を感じるようになった人のなかには一度か二度会っただけの人や、まだ一度も顔を合わせたことのない人がいる。それとは逆に、誰との関係が「我欲」や「打算」のためのものだったかが自ずと見えてきてしまって恐ろしいかぎりだ。僕は、今回の津波で過去の価値観や旧いスタイルはすべて流されたのだと機会があるたびに言っているが、平素の自分の人間関係についても問い直さずにはいられない。この話は、書けば書くほど過激になってアブナイので、このへんでやめておくが、その前に、小林秀雄と妹の高見沢潤子の対話から引用しよう。

〈「ボンヘッファー(註:ドイツの神学者)が“交わりのできない人は、ひとりでいることに注意せよ。ひとりでいることのできない人は、交わりに注意せよ”といっているのと同じじゃないかしら。」
「同じことだね。ひとりでいることのできない人、いつでもおおぜいで陽気にさわぐことばかり考えている人は、まじめになることができない人だ。まじめになるときをぜんぜんもたないで、それをどうして苦痛に感じないのか、不思議だよ。それと反対に、交わりのきらいな人は、生きる、ということを知らない人だよ。人間は、どうしたって、他人とともに生きなきゃならないからね。」
「それから、こうもいってるわ。“交わりの中においてのみひとりでいることができ、ひとりでいるものだけが、交わりのなかに生きていくことができる”って。」
「(略)ほんとうにいい交わりのできない人は、ほんとうに、純粋にひとりになりきれやしないよ。他人に心から協力しようとする気のない人は、自分に対してだって、協力できないから、自己統一の力がないことになるのだ。だから、利己主義という自己防衛の形になってしまうのだ。」〉
(高見沢潤子『兄小林秀雄との対話』講談社現代新書)
 

2011年3月29日火曜日

被災地へ活字を

 先日ブログで書いた花巻の岡部さんから午前中に電話。大槌町の避難所から電話をくれたようだ。
「絵本はこちらに絵本文庫みたいなのがあって、すでに足りているもよう。いま必要なのは大人が読む雑誌やマンガだそうです」
 物資のニーズは日々刻々と変化しているというが、“心の糧”に関しても同様なのだろう。さっそく、すでに協力を表明してくれている人や編集仲間にメールして、リサーチをお願いした。闇雲に集めても収拾がつかなくなるので、当面は顔のわかる人の間で、と思ったが、すでにツイッター等で広まってしまったようだ。
 岡部さん=大槌町ラインに続いて、仙台に個人的に物資を運んでいる人がいることがわかり、そちらにもアプローチした。花巻を拠点にした別のルートも見えてきた。
 某出版社に勤めるOさんからは、「自己啓発本(生き方指南)と料理本はやめてほしいと現地の人が言っている」との情報。美味しそうな料理は食べたくても食べられないから目の毒だということだろう。非被災者の想像や憶測とは違うところに現実はあるのだと思い知る。

 3日前NHKで、女川町で被災した自閉症児のまさきくんのことが紹介されていた。まさきくんはピアノの名手。譜面がなくても、ちょっと曲を聴いただけですぐに再現できる。避難所になっている学校でラジオ体操の曲を弾いて伴奏したことをきっかけに、みんなのリクエストに応えてさまざまな曲を演奏し、被災者の心を和ませているというもの。きょうも民放で取り上げられていたようだ。
 この話をツイッターでつぶやいたら、くだんの岡部さんからこんな反応が返ってきた。
〈観ました。誰しも、役割ができると生き生きしますね。手を出しすぎない支援が大切かも〉
 役割ができると生き生きするとは、まさにいまのわれわれのことだ。熱くなりすぎて、自分の生活がおろそかになったり、早々に疲弊してしまったりすることがないよう、気を付けなくてはと思う。

 すでにいろんな人が紹介しているので、読んだ人もいると思うが、東京の看護士さんで被災地に救護活動に行っていた人のブログは、報道には出てこない被災地の実際が克明に描かれていて、今回起こったことを知るよすがとなる。
http://blog.goo.ne.jp/flower-wing

2011年3月28日月曜日

池田晶子さんの遺した言葉

 哲学者の池田晶子さん(2007年没)が13年前に新聞で述べたことが、驚くほどいまのわれわれに当てはまり、考えさせられる。少し長くなるが、引いてみよう。

〈現在の日本に生きる人々は、自分が何のために何をしているかを自覚していませんね。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きているから、いったんその価値が崩れると慌てふためくことになる。精神性の欠如という点で、かなりレベルの低い時代と思う。
 現代世界全体がそうだが、物質主義、現世主義、生命至上主義です。欲望とか生活とか、そういったことの人生における意味と価値を、根っこからきちんと考えたことがない。だから、金融不安など大事件のように騒いでいるが、先が分からないのは別に今に始まったことではない。生存するということは、基本的にそういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと私は思う。
 地球人類は失敗しました。率直なところ、私はもう手遅れだと思う。この世に存在した時から、生存していることの意味を問おうとせず、生存することそれ自体が価値だと思って、ただ生き延びようとしてきた。結果、数千年かけて徐々に失敗した。医学なども、なぜ生きるのかを問わず、ただ生きようとすることで進歩した。何のための科学かという哲学的な内省を経ていない。
 ただ生きるのが価値なのでなく、善く生きること、つまり、より善い精神性をもって生きることだけが価値なのです。内省と自覚の欠如が、人類の失敗の原因だが、手遅れだといって放棄していいのではない。常により善く生きようとすることだけが価値なのだから、それを各人が自分の持ち場において実行するべきなのです。
 政治にしても、問題は、政治家が「よりよい」と言うときの、その意味です。彼らの言う「よい」とは、「善い」ではなくて「良い」、良い生活が人間の価値であることを疑ったことがない。しかし、人生の幸福は精神の充足以外あり得ません。物質に充足した人が、必ずしも幸福だとは思っていないのはなぜですか。みんな自分を考えるということを知らない。考え方を知らないというよりも、そもそも「考える」とはどういうことかさえ知らない。
 国民の側も、他人のことを悪く言えるほどあなたは善いのですかと、私はいつも思う。汚職した官僚や政治家はむろん悪いが、その悪いことをした人を、得をしたとうらやんで悪く言っているなら同じことだ。嫉妬と羨望を正義の名にすり替えているだけだ。
 世の中が悪いのを、常に他人のせいにしようとするその姿勢そのものが、結局世の中全体を悪くしていると思う。政治家が悪いと言っても、その悪い政治家を選んだのは国民なんだから。にわとりと卵で、どうしようもないと気づいた時こそ、「善い」とは何かと考えてみるべきだ。一人ひとりがそれを考えて自覚的に生きる以外、世の中は決して善くならない。
 税金の引き上げ引き下げで、生活が良くなる悪くなるという話以前の根本的な問題です。
 むろん政治は、生活する自我同士の紛争を調停するのが仕事なのだから、政治家はそのことに自覚的であってもらいたい。政治家が人を動かし、政策を進める時の武器は「言葉」のはず。しかし、現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。言葉を大事にしない国は滅びます。
 だからと言って、「保守主義」とか自分から名乗るのもどうかと思う。なんであれ「主義」というのはそれだけで空疎なものだ。自分の内容が空疎だから、そういう外側のスローガンに頼りたい場合が多いのではないか。やはり、各人の精神の在り方こそが問われるべきだ。
 問題はそんなところにない。要は、政治家から国民まで、一人ひとりの生き方の自覚でしかない。だからこそ「考える」ことが必要だ。考えもしないで生きているから、滅びの道を歩むことになる。考えることなら、今すぐこの場で出来ることです。
(中略)
 半世紀戦争がなかったことが大きいと思うが、みんな自分が死ぬということを忘れている。人がものを考えないのは、死を身近に見ないからだと思う。と言って、永遠に生きると考えているわけでもない。漠然としたライフプランで、なんとなく生きている。一番強いインパクトは死です。人がものを考え、自覚的に生き始めるための契機は死を知ることです。
 制度を変えても、精神の在り方が変わらなければ、世の中は決して変わりません。〉(読売新聞、1998年4月1日より)

自粛する理由

 日曜の午後、陽のあるうちに少し近所を散歩することにした。林試の森を縦断し禿(かむろ)坂を半ばまで下って桐ヶ谷斎場の方へ進む。東急目黒線の地下化が進められているあたりは、ごちゃごちゃと入り組んだ古い家並みが工事のせいで剥き出しになっている。車の通れぬような小径がL字を成し、坂を成して、向かい合って建つ片方の家の1階が他方の2階だったりしていた。こんなところに大きな地震や火災が来たらたいへんそうだと、ついそういうことに思いが至る。道端に立つ自治体の掲示板に「花見会中止のお知らせ」が貼ってある。ここにも自粛ムードが押し寄せていた。

 家に帰ってTVを点けると、甲子園球場の高校野球ではブラスバンドの応援が自粛でなくなり、アルプススタンドの学生たちは口まねで音楽を奏でていた。

 一方で、「自粛なんてしないで、ふだん通りに元気に楽しんで、経済を回してください」という声が被災地から届く。ある写真家は地震の翌日に救援物資を持って被災地に入り、数日間現地で過ごして東京に戻ってきたら、「東京の方が暗く沈んでいて驚いた。被災地の人びとのほうがよほど生き生きしていた」と言ったそうだ。

「在京被災民」として僕は思うんだけど、自粛は、地震や津波で犠牲になったり、原発事故で難儀している人の気持ちを慮ってということももちろんあるが、それ以上に、われわれ自身がまだショックと不安のうちにあって楽しんだり騒いだりする気が湧いてこないということから起こっているのではないだろうか? われわれ非被災地で暮らす者の多くが感じているのは「無力感」であり、理不尽な「罪悪感」だと思う。どこの町だか忘れてしまったが、被災地の人びとを歌で励ましたいと録画録音している小学生のニュースがあった。その中でひとりの少年がこう言った。
「TVで地震や津波のようすを見たとき、災害に遭ったのがどうして僕じゃなく、あの人たちだったんだろうって思いました」
 奇しくも、この談話は、先日友人Nさんに教えてもらって読んだ恐山の僧、南直哉氏のブログ(『恐山あれこれ日記』)に書かれていたことと同じだった。南氏はそれを「無常」と結びつけていた。
 僕のいう「無力感」「罪悪感」というのも、感覚としては彼らの言っていることに近い。誤解を恐れずに極端な言い方をすれば、東京が震源地で僕らが津波に見舞われていたほうがマシだったとさえ思えるのだ。
 このブログのタイトルに目黒被災という言葉を選んだとき、ひとつには放射能汚染だとか停電、物不足、交通混乱など、われわれが東京にいて物理的に被っている被害を念頭に置いたのだが、もうひとつ、より根の深い、そして実際の被災地とは別種の「被災」について考え、述べたかったということがあったのだ。

2011年3月27日日曜日

花巻の岡部さんのこと

(3/26記す)
岩手県花巻市に住む岡部慶子さんが携帯メールで何年かぶりの便りをくれたのは震災の8日前、3月3日のこと。僕が某女性誌に書いたスペインの記事を目に留め、スタッフクレジットに僕の名前を見つけて、久しぶりに連絡してくれたのだ。

岡部さんは、画家・イラストレーター永沢まことさんの門下生で、本人も生徒さんをもって絵を教えたり、スケッチのイベントを催行したりしている。永沢まことさんの本や画集の企画編集を僕がやらせてもらっていた縁で岡部さんと知り合ったのは10年以上も前のことだ。明るくてオープンマインドで行動力があってちょっとお茶目なところもある岡部さんとはすぐに腹を割って話せるようになったことを覚えている。東京出身の岡部さんがご主人の仕事の関係で花巻に引っ越されたことまでは聞いていたが、長らくご無沙汰していた。

3月11日。地震が起こってすぐに思ったのは岡部さんの安否だった。携帯メールを送ると、「温泉に入っていてパニックでしたが無事です。東京もすごそうですね、大丈夫ですか?」と逆に心配してくれた。

震災から丸2週間が経った昨日、再びメールで様子を訊いてみた。岡部さんは被災地のための物資調達と手配の手伝いをしているとのこと。そして、「ブログを通して被災地に配る絵本を集めています」とのことだった。このやりとりをするうちに僕の頭のなかにピカッと電球が灯った。

被災地では水や食料や毛布や燃料や医薬品がゆきわたると、次には清潔な下着や服や靴が必要になる。歯磨きセットや入浴の機会、散髪といったことがそれに続くだろう。作業をする人には長靴や軍手が要るだろう。被災地のニーズは日々変わっていく。そうしてライフラインが復旧すると、被災者は時間をもてあますようになる。そのときになって重要となるのが「心の糧」となるものだ。被災地には新聞は届けられているが、絵本や雑誌や本はないらしい。僕は震災以来ずっと家とその周辺にいて、誰に届くともしれぬ声を上げつづけていたが、ようやく「実体」を伴った支援のすべを見つけたような気がした。本なら集められる!

おりしも紙媒体は電子媒体に追われ、衰退・絶滅の危機に瀕している。それに携わってきた者は自分が現代の恐竜にでもなったような気がしていたが、被災地の人びとが本を手に取り、ページをめくる光景をイメージするとき、そこにはiPadはどうも似合わない。紙媒体は、インド洋の深みをのたりのたりと漂うシーラカンスのようにまだ生きていた。生きる意味があったのだ。

岡部さんには1歳になる男の子がいる。彼女のブログを読むと、子どもの存在が親にとってもコミュニティにとっても希望と同義であることがわかる。ブログには被災地の現状とアクションが日々つづられていて、雑ぱくなTVやネットのニュースなんかより、よほどリアリティがある。
このブログを読んでくださっている方にもぜひ一読をお勧めする。

◎岡部慶子さんの「スケッチ日和通信」:
http://sketch-biyori.cocolog-nifty.com/

2011年3月26日土曜日

起ちて咲く花



今日も都内は強い風が吹いている。空は晴れ。

午後、近くの林試の森公園にジョギングに出かけた。僕はこの公園で走るために、ここ下目黒に住んでいると言っていい。昼間走る日もあれば、夜走る日もある。その日の気分と体調に合わせて、走るコースもスピードも変える。石階段の上り下りをしたり、ぶら下がり器具で懸垂をしたり、ベンチで腹筋運動をする日もある。大小の木々や季節の花、芽吹き、紅葉、落葉、陽ざしや雲や小雨や夕日や月や星が僕を倦むことなく走らせてくれる。野良猫もカラスもヘビもカエルも甲虫も友だちだ。

何年もの間、鋼鉄の日課になっていた「林試走り」だったが、震災直後に途切れ、いまは数日置きになっている。地震から4、5日経った日の夕方、買い出しの帰りに公園に行ってみると、いつもは部活の高校生や犬の散歩で集う連中で賑やかな時間帯なのに、がらんとして見慣れぬ場所のようだった。芽吹きを控えた骨格標本のような木々の梢を黒雲が覆い、西の低空だけが陽の名残でオレンジに染まっていた。その空は3/11の夕方に仕事部屋の窓から見た空とよく似ていて僕は少し怖くなった。

2日ほど経った週末(震災から1週間後)の午後に、ちゃんと走るための格好で公園に行くと、そこにはいつもの賑わいが戻っていた。界隈の人たちはその数日のあいだにモードを切り換え、ある程度日常を取り戻すことにしたのだろう。

去年の落ち葉でふかふかになった周回コースで何本かダッシュをした後、まだもう少し走り足りない気がして、ごくゆっくりのジョギングに切り換えたとき、「そうだ、木蓮を探そう」と思い立った。林試の森はもともと都内の街路樹に相応しい樹木を選ぶために内外からいろいろな植物を取り寄せて植えた試験場である。いままで意識していなかったが、きっと木蓮やコブシもあるだろう。ほどなくして、中ぐらいの広場の一隅に白い花をたくさんつけた白木蓮の木を見つけた。昨日来の強風にもかかわらず、花はほとんど散っていない。乳白色の大きな花びらがやわらかく、しかし、りゅうとして立っている。その姿に思わず、句を詠んだ
〈起ちて咲く 花もくれんに 帽子とる〉

2011年3月25日金曜日

木蓮の花に吹く風


(3/25記す)
きょうの最大の話題は、昨日作業中に被爆した東電作業員の続報。作業場の水に含まれる放射性物質の値を測ったところ、通常施設内に流れる水の1万倍の放射線量だったとのこと。「1万倍」が端的に語るのは3号機の破損の度合いだろう。自衛隊や消防庁による連日の注水で、少しずつ安全性を回復していたかに思われた原発問題は、また濃い霧のなかへと引き戻されたかたちだ。

目黒区周辺は午後から強い風が吹いている。咲き始めた木蓮の花が飛ばされていないか、あとで見にいってみようと思う。春を告げるはずの風や雨や雲が、ふだんとは違った趣を見せてわがセンサーに感知される。地震の日から、もののあわれを感じる部分がビビッドになっているので、些細なことにも強い感銘を受ける。変性意識状態ということなのだろう。心の同じ作用が、日常のありふれた行為を色鮮やかにしている。たとえば顔を洗ったり、歯を磨いたりすること。熱い湯を沸かしコーヒーやお茶を淹れて飲むこと。カップの縁からたらすミルク。炊きたてのごはんやトーストしたてのパンを食べること。具のたくさん入ったスープをこしらえることができること。風呂の湯に首まで浸かって心身をほどけさせること。いちいちが特別で有り難いことに思える。

小さなトピックスを拾っておこう。

新聞に載った被災者の声。〈福島市天神町、大和田伊助さん(89)「みなさんに助けられているから、不便だけれど苦痛じゃないですよ。年の割には元気だって言われます。たいした病気をしていないからね。ただ団体生活は初めてだから、早く家に帰って好きなものを食べたいね。被災地以外のあなた方こそ、元気でがんばってくださいよ」(3/23朝日新聞朝刊)。こっちが逆に励まされるとは!

JT(日本たばこ産業)は30日から4月10日までたばこ全製品の出荷を一時的に停止する。震災により、たばこの製造工場が被害を受けたほか、材料も調達しにくくなっているため。(3/25、YOMIURI ONLINE)。たばこよ、お前もか!

今朝、郵便受けに「ハナコ・フォー・メン」が届いた。僕はこのなかで芥川賞作家・朝吹真理子さんのインタビューをやらせてもらっており、編集部から見本誌として届いたものだ。震災の影響で発売日は1日延びたと聞いた。この雑誌のなかに寺田本家という千葉の造り酒屋が取り上げられていた。自然農法と非機械化ですばらしい酒を造っている蔵だ。僕がよく飲みに行く原宿のバー誤解の店主もこの蔵の大ファンで、いつもここの酒を飲まされるが、たしかにしみじみと旨い酒である。誤解店主によると、この蔵も震災による断水で仕事ができない状態であるという。水道が復旧しても、利根川水系の水とコメの安全性が疑われるいま、そして今後、見通しは明るくない。

3/24の追記

宮城、福島、茨城、岩手の陰に隠れてあまり報道されていないが、千葉も大きな被害を受けている。その原因は揺れや津波ではなく地面の液状化。浦安市では最初の地震の日以来、液状化の影響で4000世帯が断水。いまも市の給水車から配られる水で暮らしている。

仙台市内ではきょう13日ぶりにガスの供給が再開された。住民たちは、これで煮炊きができるし、風呂に入れるとよろこんだ。

いまや世界が注目している福島第一原発の3号機で、作業中の職員2名が被爆。「ベータ線熱傷」と診断され、病院で治療を受けている。生命に別状はないとされるが、ベータ線熱傷になると10日後くらいから患部が赤く腫れ、水脹れになり、最悪の場合は組織が壊死するのだそうだ。作業中の足場が水深15㎝くらいの水たまりになっており、その水に含まれていた放射性物質が皮膚に付着したもの。長靴も履かせていなかった東電の危機管理態勢に批判の目が向けられている。

2011年3月24日木曜日

不要のもの

(3/24記す)
今朝も強めの余震で目が覚めた。東京の震度は3。震源地に近い茨城北部では震度5強を記録した。

TVの報道によると、都内で車のフロントグラスなどに黄色い微粉末が付着しているのを見て、「これは放射性物質ではないか?」という問い合わせが役所や関係省庁に多く寄せられたという。この季節、黄色い微粉末といえば花粉か黄砂だということくらい、子どもだってわかる。不安が常識を侵している。花粉と黄砂の混合物から放射能は検出されなかったそうだ。西からの風が運んだのだろう。中国から飛んでくる黄砂だってろくなものは運ばないだろうが、いまそれに言及する人はいない。

スポーツ紙の記事からの引用で取り上げられていたのは、被災地で活動する自衛隊員たちのこと。印象に残ったのは、自衛隊員たちが夜任務を終えたあとに行うルーティンのことだ。彼らは焚き火を囲んで車座になる。その日の活動について互いに報告し合い、目撃した悲惨な状況をシェアして「泣く」のだそうだ。そうやって、その日の悲しみを吐き出してから、それぞれ翌日に備えて眠りにつくのだという。

今回の震災は世界を一変させるほどの破壊力をもっていると僕は思う。あの津波のあとの引き波が、これまでの価値観や旧いスタイルを流し去ってしまったのだ。

人は、いま、自分の職業(職能、天分、経験、社会性)が善か悪か、要か不要か、を問われている。震災直後TVの画面からCMがスポンサーの自粛によって消えた。数日後にはスポンサーCMに代わって、公共広告機構(AC)の広告が民法に流れ始めたが、少ないパターンが繰り返されるのと、CMのラストに入る「エーシー」というコーラスが耳につき、ただでさえストレスが溜まっているのにイライラするということで、その音が消されたりしている。多くの発電所が機能を失ったことで供給電力が足りず、節電が呼びかけられ、夜の街はすっかり暗くなったが、真っ先に消されたのは広告関係の明かりだった。危難のときに最も不要とされるもの——暗くなった街の姿を目の当たりにして、広告代理店とかでエバってた人たちは、自分の役立たずぶりにうろたえていることだろう。

人みなやさし

(3/23記す)
イタリアに住む日本人の友人が、「震災以来仕事に集中できない」とメールに書いていた。
バリ島に住む友人(日本人)は、「震災からPCの前にいる時間が何倍にも増えて、眼精疲労になった」という。

僕自身を含め、震災以来体調がすぐれないと言う人は少なくない。
直接の被災者でなくても、災害のようすや原発の危険を伝える言葉や映像に触れた者はだれでも心穏やかではいられない。

きのうの朝、起き抜けに、カラダの内と外の区別がなくなるような、彼我の境がなくなるような、奇妙な感覚に襲われた。ああ、とうとう致死的な放射能がきて自分は死んでしまったのかと一瞬思ったが、そうではなかった。ふだん思い描いている死のイメージとはだいぶん違っていたが、なにせ死んだことがないからわからない。

状況はきょうも変化している。
一昨日、福島、茨城の農産物(ホウレンソウ、原乳など)から基準値を超える放射性物質が検出され、出荷が停止になった。きょうは葛飾区の浄水場(ここから都内全域の水道水が出ている)の水から基準値を超える放射能が出て(乳幼児に長期間飲ませると甲状腺ガンの危険が増すというレベル)、午後にはスーパーからミネラルウォーターがなくなっていた。
きのう、きょうと首都圏は雨が降っていて、そのせいで空気中の放射線物質が雨粒といっしょに地面に落ち、土地や水の放射線の値を上げてしまったようだ。いずれの場合(野菜も水も原乳も)も、その値はかなり保守的なもので、大量に長時間摂取しないかぎり、健康被害はないということになっているが、わざわざ選んで被爆地のものを食べようという人はいないわけで、該当地域の農業や酪農への被害は図り知れない。海の水からもやや高い放射能が検出されたので、漁業にも大きな被害が出るだろう。

夕方、いつも買い出しに行く目黒駅前のスーパーで、過去に見たことのないほど長いレジ前の行列に並んだ。ちょうど勤め人たちが家路につく時間と重なったということもあったのだろうが、数日前の「買いだめ」のときとは違うインパクトを感じた。

……と、このように書くと、読む人はまたしても心配がつのるだろうが、現場で暮らしているわれわれはそれほど緊迫していない。不思議な感じだが、べつに命をおろそかにしているとか、人生を投げちゃってるとかというのでもない。むしろみんな前向きに生きているようだ。きょうの午後、用事があって某出版社にいってきた。社内は節電で暗く、広告自粛等で打ち合わせが激減しているせいか人影もまばらだったが、人びとはいたって冷静で、タバコをふかして雑談をし、災害ジョークも言って笑っていた。以前は会っても会釈する程度の仲でしかなかった人と震災見舞いの挨拶を交わした。総じて、人が以前よりもやさしくなった印象だ。

2011年3月21日月曜日

忘れないために

2011年3月11日に起こった東北関東大震災の顛末を僕個人の周辺を中心に記録するべく新たなブログを立ち上げた。ここに書くことは僕自身へのメモであり、遠くに暮らす(それゆえに今回の震災に関する情報が薄く、あるいは偏っていて、不安になったり気を揉んだりしているしている)友人・知人たちのための報告である。

震災をきっかけに考えたことや、被災地外の人びとを含む広い意味での「被災者」に少しでも役に立ちそうだと思うことを、ツイッターにつぶやいてきた。ここでは、それらを再編集したものをアップすることもあるだろう。時系列はあまりあてにならないことを予めお断りしておく。

まずは、山田太一編『生きるかなしみ』より引用し、抜粋した短い文章を。〈人生の暗部を見まいとする人びとの楽天性は一種の神経症というべきで、人間の暗部から逃げ回っているだけのことである。目をそむければ暗いことは消えてなくなるだろうと願っている人を、楽天的とはいえない。本来の意味での楽天性とは、人間の暗部にも目が行き届き、その上で尚、肯定的に人生を生きることをいうのだろう。ニーチェが「悲劇は人生肯定の最高の形式だ」といっているのも、そうした意味合いではないだろうか〉