2011年5月12日木曜日

東北の被災地へ(中編)

(前回のつづき)
 津波が家々を押し潰し、流し去った後の映像は震災後いく度となくTVなどで見てきた。見て、すでに知っている気になっていた。そこには土砂や建材や、車や船や漁具や、家具や畳やドアや窓ガラスや、家電や衣類や食器や玩具などが引き波にばらまかれたままの姿で残っているということを、われわれは現地に来る前にすでに知っていたはずだった。
 しかし、目の前に3Dで広がる現実は「知識」や「二次情報」とはかけ離れたまったくの別物だった。うまく伝わるかどうかわからないけど、そこには「意思」とか「感情」のようなものが含まれているようだった。その感情に名前を付けるとしたら、「怨」とか「恨」ということになるだろうか?
 警察庁のまとめによると、5/7現在、大槌町の被害状況は、死亡751人、行方不明が約950人。約5500人が避難している。
 ところが不思議とそこから「死」は感じられなかった。先ほどまで見てきた春爛漫の景色から感じた「生命力」や「希望」はいっさいここにはなかった。その意味で、きわめて「絶望的」な眺望ではあったが、崩壊した家の壁に赤いペンキで×印がされている(それは遺体が見つかったことを意味する)のを見てさえ、「死」の影は色濃くなかった気がする。なぜそうなのか、それは僕だけの感覚だったのか、にわかにはわからない。

 悪臭のことを書いておかねばなるまい。瓦礫の原はいたるところから魚の腐敗したような強烈な悪臭が立ち上っていた。水産加工工場の冷凍庫がやられて、保管されていたものが腐っているというのは報道で見知っていたが、もちろんTVや新聞から臭いは立たない。嗅覚はもっとも簡単に麻痺するというが、これに麻痺するには相当の鈍化が必要そうだ。瓦礫の撤去や泥よけの作業でもこの臭いは大きな障害になるだろう。ましてや、これから気温の上がる季節には……。

 大槌町でまず訪ねたのは津波の最終到達地点から100メートルほど内陸に入った小集落だった。そこは30〜40軒の比較的新しい家屋からなる住宅地区だった。野菜の入った段ボール箱を届けるのを手伝って上がらせてもらった家は、12歳くらいの女の子ひとりを残して誰もが外出しているようだったが、建物も家具もほぼ新品で垢抜けており、壊れた箇所も見あたらず、地震や津波とは無縁に見えた。しかし、集落には商店は皆無で、海岸沿いの商業施設などが壊滅していることを考えると食料も何もストップしていて、外見はふつうの暮らしに見えても中身は激しく被災しているのだろう。午前9時半という時間のせいか、集落にはほとんど人影もなく(ある家の前で大量の洗濯物をたらいで洗っている30代くらいの女性と、別の家の庭で花壇の手入れをしている年配の女性を見たのみ)、5月の朝の陽ざしがさして清々しいようでもあり、しかし100メートル先には例の恐ろしい瓦礫の存在感が厳然とあるという、なんとも奇妙な眺めと気分を経験した。

 つぎにわれわれが訪ねたのは、避難所になったお寺だった。現在、男女それぞれ20数人、計45人ほどがそこで避難生活を送っているということだった。
 お寺は海辺の平地へと下る急斜面の途中に建っていた。路肩に車を停め、入口への坂を下っていくと、軽の乗用車を洗っている若い男性がまず目に入った。避難所で車を洗ってはいけないという法はないが、あまりに日常的なシーンに出くわして、いささか当惑した。
 気を取り直し、「こんにちは」と挨拶すると「こんにちは」と意外なほど軽快な声が返ってきた。
 緊張し、過度に深刻ぶっていたのはこちらのほうだったのだ。被災地に来ることを迷ったのと同様、避難所を訪ねることにも迷いというか不安があった。要望のあった物資を携えているとはいえ、突然押しかけて迷惑じゃないのか? そこに生活があるということは、避難所も当然プライバシーが守られるべき場所のはずである。部外者はそれ相応の手続きとマナーを持って訪ねるべきだろう。

 お寺の入口の前が広場のようになっていて、焚き火を囲んでスチールの椅子が配されていた。入口脇の軒下には水の入ったペットボトルが積まれ、調味料の瓶が並んでいた。われわれの運び込んだ物資よりも一足先に到着したらしい段ボール箱の中身は頑丈そうな靴底をもつ安全靴だった。白いゴム長靴を履いた初老の男性がひとり、箱のなかから靴を取りだしてあらためている。
「そういう頑丈なやつじゃないと、釘とかあって危ないんですよね」と声を掛けると男性は、その通りだと言わんばかりに大きく頷いた。この小さなやりとりで、僕はこの場所への闖入を許可された気がした。
 先に入っていた岡部さんに手招きされ、バッグ類が詰め込まれた段ボール箱を抱えてわれわれもお堂のなかに入った。

 60畳くらいの広さの畳敷きの室内は思いのほか整然としていた。床には寝具がきちんと畳んでまとめられ、人びとが自由に使えるスペースも確保されている。壁際には段ボールやクリアボックスに入った私物が積み上げられている。一方の柱から他方の柱にナイロン紐が渡されてハンガーやタオルが掛けられるようになっている。中央に灯油ストーブがひとつ。統制とか秩序が概ね行き渡っているな、というのが第一印象だった。
 避難者の渉外担当的な役割を担う女性Sさんを紹介された。にこやかでフレンドリーな人だ。われわれが持ってきたものを見せると、Sさんがお寺中に聞こえるような大きな声で「バッグをお願いされた方、届けてくださいましたよ」とアナウンスした。すぐに7、8人の女性が集まって物色が始まった。

 場所の雰囲気に慣れてくると、それまで見えなかったものが見えてきた。一箇所だけ布団が敷いたままになっており、顔色のとても悪い老人が臥していること。お堂のなかには他の避難所で見られるような間仕切りが一切ないこと。ガラス戸を挟んだ外側に廊下のような場所があり、そこにも数人分の布団が並んでいること。
 Sさんの話によると、間仕切りがないのは、避難者たちが誰もその必要を感じていないから。間仕切りについては、戸外の焚き火のところで自衛隊員たちに訊かれた男性たちが同様に「ここは不要だ」と答えていた。これも僕にとっては意外なことだった。ニュースなどで間仕切りがなくて困るとか、間仕切りができてありがたいという話ばかりを聞いていたから。避難所や人によって、ニーズはまちまちなのだ。
 廊下の部分の「別室」については、いびきがひどくてみんなに迷惑をかける人の隔離スペースなのだそうだ。僕もいびきかきだから、避難所に入ったら同じ処遇を受けることだろう。“事情”は無数にありそうだった。

 カバンや衣類の他に、東京から持ってきたものがあった。20代の女性から要望のあった雑誌(「PS」「Spring」「Jille」)。いま流行りの分厚い付録が付いた最新号を受け取った女性はマスクの上の目を輝かせて喜んでくれた。
 被災者とか避難者とかいう言葉は、往々にして個別の人格を埋没させてしまうけれど、実際にここにいる人たちは、当たりまえのこととして、一人ひとりに個性も嗜好も事情もある。支援する側はそのことをつねに肝に銘じなければならない。

 避難所というのは意外と人の出入りがあって忙しい場所である。僕らがいる間にも、マッサージをするボランティア、血圧を測りにきた医療チーム、エクササイズを指導するヨガ・インストラクター、自衛隊員などさまざまな人がお寺に出入りしていた。
 自衛隊は別の隊が2回来た。最初の2人組はバットいっぱいのおにぎりを運び込み(毎日持ってきてくれて助かるとのこと)、人びとから次回持ってきてほしいものの希望を募っていた。メモを覗き見ると、風邪薬の具体的な品名まで書かれていた。そこまで自衛隊がやっているとは知らなかった。後から来た別の2人組みは、避難所の改善要求を人びとに訊いていた。間仕切りについて訊いていたのは彼らだ。避難者からはトイレの下水がつまりがちだから何とかしてほしいという要望があった。

 Sさんから状況を聞き、わずか1時間半ほどだったが自分の目で人びとのようすを見たかぎりでは、ここは比較的恵まれた避難所であるようだった。こっちのほうが快適だからと、小学校の避難所からこちらに移ってきた人もいたらしい。
 ひとつには大きすぎない規模が幸いしたのだろう。元々この近くの顔見知りばかりが集まっているということも有利に働いているかもしれない。

「今回の震災で私は、人は見かけで判断してはいけないとつくづく思いました」とSさんが言う。避難者同士の人間関係の話かと思ったが、そうではなかった。「先週、ある日の夕方、若い男性の2人組が突然訪ねてきたのです。そのうちの1人は眉毛を全部剃っていて、ちょっと怖い感じでした。ものもはっきり言わないし、おっかなかったけど、何の御用ですかと訊ねたら、東京から米やら毛布やらを車に積んできたというのです。すでに米も毛布も足りていると言うと、そんなことを言わないで、積んできたものを見てくれって。私たちを助けようと、一生懸命でやさしいんです。ここの後、釜石のほうまで行くというので、それじゃあ食事をする場所もないからと思って、おにぎりをあげようとしたら、救援に来ているのだから、それは受け取れないって。眉のない子がそう言って、かたくなに拒むんですよ」

 お堂のなかは女性ばかりだった。焚き火のところにたむろしている男性たちの話を聞こうと思って外に出た。
 広場を見守るように立つお地蔵様の手には逆さになった長靴が引っかけてあった。脇の斜面は段々に整地されて墓地になっていた。黒御影石ばかりなのはその石が近くから出るからだろうか。何人か墓参りの人が見える。広場のふちに立って見下ろすと、墓地の下の方から2段は墓石が無惨に倒されていた。そのあたりまで僕が立っているところから垂直距離で3メートルくらいだろうか。そこまで津波が来たのだ。海に向かっていったん下った土地は30メートルほど向こうで再びせり上がって堤になり、そこに単線の線路が走っているのが見えた。その線路は視界の右前方でぐにゃりと曲がり、堤から転落して途切れていた。途切れた線路の先には1台の貨車がゴロリと横たわっていた。それもこれも津波の爪痕だった。
 女性たちと比べて、男たちは無口だった。機嫌が悪いとかふさいでいるというのではない。ときどき口を開いては当たり障りのない話か下ネタのジョークを言い合って笑っていた。たいていの男性がタバコを吸っていた。酒は被災してから血圧が高くなって医者から止められていると言う人がいた。
 土地柄、漁師さんが多いのかと思ったが、たいていはお店を持っていた人たちだった。焚き火を囲んだ車座は、男たちのやり場のない思いでよどんでいた。僕の座った背後に板張りの小屋があって小さな煙突が立っていた。それは大工の男性が廃材でつくった風呂場だった。なかを覗かせてもらったが、充分な広さがありきちんとつくられているようだった。どのようにしてそれをこしらえたかを説明する大工氏は照れながらも誇らしげだった。男たちは役割を求めているのだと思った。

 晴れて強い陽ざしが差したかと思うと、一転曇って、小雨が降ってきた。避難所の人たちは口々に「雨だぞぉ」と言いながら、洗濯物を取り入れたり、濡れそうな荷物を軒下に移したりしていた。僕は再びここに統制と秩序を見たような気がした。

 そろそろお寺の避難所をおいとましようと言いだしたとき、Sさんが自宅を見にいかないかと誘ってくれた。Sさんの家は避難所のそばのトンネルの先にあるということだった。
(以下、次回)

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