2011年4月29日金曜日

コミットメントのとき

 15年くらい前、作家・村上春樹氏は、ユング心理学者・故河合隼雄氏との対談のなかで、このようなことを語った(正確な引用ではなく僕の記憶による大意です。詳しくは新潮文庫『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』を参照してください。あしからず)。

〈いままで僕は世のなかに対してデタッチメント(無関心)できたけれど、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を機に、コミットメント(関わること)でいこうと考えるようになった。〉

 コミットメントの姿勢が彼に『アンダーグラウンド』や『神の子どもたちはみな踊る』を書かせたのだった。

 今回の震災後、僕はしばしばこの“コミットメント”という言葉を思い出す。

 今週、僕と妻は連れだって、映画『ミツバチの羽音と地球の回転』を見にいき、憲法行脚の会主催の脱原発イベントを聴きに出かけた。いずれも、震災前には起こさなかったであろう行動だ。

『ミツバチの——』は、瀬戸内海で進む原発立地計画(上関原発)とそれに反対する祝島の住人の行動を軸に、スウェーデンにおける再生可能エネルギー転換の具体例を加えて構成されたドキュメンタリー映画。福島原発事故以前から一部で話題になっていたが、事故後に観客動員が増えて、追加上映も行われている。詳しくは公式HPを(↓)
http://888earth.net/index.html

 脱原発イベントのほうは、チェルノブイリ原発事故から25年の日(4/26)に合わせて開催されたもので、タイトルは〈いまこそ脱原発の道を歩もう〉。講談師・神田香織さんの講談『チェルノブイリの祈り』、経済評論家・佐高信氏のトーク、神田さん、佐高氏に社民党党首・福島瑞穂さんを加えた鼎談の3部構成になっていた。入場料は1000円。
 神田さんの講談はウクライナ人の原作によるもので、チェルノブイリ事故で消火活動にあたり被曝死した消防士とその妻の凄絶な物語。
 佐高さんは、20年ぐらい前に何度か原稿を依頼したことがあり旧知。久しぶりにナマの姿を見たが、相変わらず元気そうで、軽妙、辛口、やや過激すぎ。政治家や東電のていたらくを一刀両断しながらも、かつては東電にも骨のある経営者がいた話などもしてくれて勉強になった。
 話が逸れるが、佐高氏は「週刊金曜日」で“電力会社に群がった原発文化人25人”を告発・批判しているが、そこには文字通り、原発推進の発言をした人たちに加えて、電力会社がスポンサーをしたCMやイベントに出演した人たち(原発の是非については何も言ってない)までも挙げられて糾弾されている。僕はここで白状するが、その線でいくと、かつて某グルメ系雑誌でオール電化のタイアップページ(2ページ)の仕事を請け負い、原稿を書いた僕も同罪ってことになる。これは弱った、と記事を読んで一瞬当惑したが、自分の心に訊ねてみても後ろ暗いところはない。それは電力会社が提供したTVのお笑い番組に出ていた芸人などと同じ気持ちだろう。批判や糾弾も度が過ぎるとせっかくの毒が効かなくなると思うのだが、どうだろう?
 話は戻って、脱原発イベントのつづき。福島瑞穂さんは、会期中の国会の報告をした。党派を超えていまこそ原発と訣別する方向に動かないと、と力強く語って250人ほどの聴衆の喝采を浴びていたが、もともとがシンパばかりの集まりであることを思うと、少し寂しい気がした。
 イベントのなかほどには、当然のことのように、会場にカンパ袋が回された。そこで集められる義援金の行方も名言されぬままに。わずかな時間で15万円ものお金が集まったと報告があったが、僕(募金に協力せず)はこういう「狎れ」のようなものが、この手の集会を胡散臭くしているのだと思った。せっかくTVや新聞では知ることのできない貴重な情報に触れられるチャンスなのだから、もう少しフツーの人が参加できる配慮というか工夫をすればいいのに。

 脱原発イベントの帰りに「週刊金曜日」の増刊号を買った。書店で立ち読みくらいはしたことがあるが、この雑誌を買うのは初めてだ。
 巻頭に、ルポライター鎌田慧氏の文章があり、とてもわかりやすかったので、引用しておこう。
〈原発を動かしてきたのは、カネだった。カネ以外に、理想や夢や哲学が語られることはなかった。地域にどれだけのカネが落ちるか、それが受け入れの条件だった。農地も漁場も買収された。電力会社と国と県とが、カネにあかして原発の恐怖を圧し潰した。これほどカネまみれの事業はない。電源三法による「原発立地交付金」、周辺には「周辺立地交付金」、政府と電力の「毒まんじゅう」であり、モルヒネ注射。いったん引き受けると、「毒を食らわば皿までも」と増設に期待した。自治体の選挙には、電力とゼネコンとが一体となって、自民党の原発容認候補を推した。電力総連、電機連合、基幹労連などの関連産業の労組が原発推進、ナショナルセンター・連合も原発賛成、その支持政党の民主党も大賛成、与野党癒着、原発翼賛体制が恐怖の原発社会をつくった。〉(鎌田慧「わがうちなる原発体制」、週刊金曜日4/26臨時増刊号)
 
 鎌田氏は弱者の立場に拠ったルポルタージュを多く書いている。僕も一度会ったことがあるが、この上なく純粋で、まっとうな人物である。鎌田氏の著書には『原発列島を行く』(集英社新書)などがある。

2011年4月26日火曜日

それぞれのストーリー

 昨夜、代々木上原のカフェで友だち4人と飲みながら震災の話をしていた。メンバーのうちの2人(YクンとAさん)は実家が宮城。Yクンの実家は仙台市内で難を逃れたが、Aさんの実家は松島で被災した。

Yクン「僕の実家では震災2日目に電気が復旧。オール電化だったから料理もできて、ご近所の人がお湯を沸かしにきたらしい。お袋が弁当屋をやっているんだけど、震災直後に便乗値上げしたと言うんですよ。まったく、あの人、何考えているのやら……」
Aさん「私の実家は海岸沿いの土産物屋。松島は島々が防波堤の役割をしてくれたお陰で、よそよりは被害が少ないけど、3階建ての1階部分は津波でやられました。昔から『松島は守られているから平気』という意識が根強く、それが災いして気が緩んでいた部分もあると思う。町のみんなが避難するなか、私の父は店舗兼自宅に残ると言い張ったそう。建物の3階にいて無事だったからよかったけれど」
 Aさんは震災後1週間ほど実家に帰って家族と会い、津波で泥だらけになった土産物屋の清掃作業を手伝ってきたという。現場でまず感じたのが「臭い」。津波で陸に押し上げられた土砂には少なからず海底のヘドロが含まれていて、乾くにつれて激しい悪臭を放つのだそうだ。重くて臭い土砂は床に均一に積もるのではなく、店の奥の壁に向かって傾斜を成していたとか。土砂の放つ臭気には有害物質が含まれていたらしく、Aさんは喉を痛めてひどい状態で帰京したということだった。
 そうやって個人からしか聞くことのできない具体的な話をシェアしていたら、店のギャルソンのひとりが「じつは僕の実家が福島の相馬で……」と話の輪に加わってきた。
「警戒区域になって立ち入り禁止になる前日の4/21に地元の友だちとガイガーカウンターを持って現地に行ってきたんです。実家のあたりは津波で壊滅していて、家は基礎部分から根こそぎ流されていました。僕らは検問のない山道とかも知っているから、そういう道を走って福島原発まで5㎞のところまで行ってきました(そう言って、iPoneで撮った写真を見せてくれた。瓦礫の山の向こうに原発の鉄塔と建屋が写っていた)。このあたりの放射線量は東京とそれほど変わらないんです。相馬から飯舘に抜けるトンネルがあって、そのトンネルを抜けた途端にグッと線量が上がりました」
 原発周辺の区域を同心円で区切ることの愚は報道でもよく言われているが、一般人でも簡単に検証できるようなことだとわかる。主に3号炉の建屋の爆発(3/14)で放出され飛散した放射性物質が風に乗り、雨に落とされて、原発周辺域に濃淡のあるまだら模様を作った。いまだに濃い部分は濃く、薄い部分は薄い。原発からの距離とはほとんど関係がないのだ。
 ギャルソン氏は、風力発電のプラントを福島に寄付するという、知り合いのアメリカ人富豪と連絡を取り合って、プラン実現のために奔走しているそうだ。彼には彼の重大なストーリーがあった。こうやって一人ひとりと、きちんと向き合って話していけば、東京にいても被災地の実際が見えてくる。話をしてくれる側も、シェアすることで気持ちがいくぶんか軽くなるってことがあるのだろう。

 帰りに乗った個人タクシーの運転手とまた震災の話になった。彼によると、震災直後は電車のダイヤが乱れたこともあって、タクシー利用者が増えたが、その後は、外国人客が去り、関西などからの出張組が減り、商売アガッたりだそうだ。そこにもまた別の被災談があった。

2011年4月23日土曜日

雨の日に、魂について

 10日ほど前の毎日新聞のウェブ版に、被災地の人たちに「いま、あなたの宝物は何ですか?」と訊ねる記事があった。
http://mainichi.jp/select/jiken/graph/takaramono/index.html
 記事の一部を拾ってみよう。
 11歳の蓮斗くんの宝物は、先生が見つけてくれたランドセル。「おじいちゃんがつけてくれたキーホルダーが取れているのは残念だけど、大切にします」。
 伊藤幸さん(86)の宝物は、津波の犠牲になった親戚が以前趣味のパッチワークで作ってくれたバッグ。それひとつだけを持って逃げた。中には財布や薬が入っている。
 木村真喜子さん(48)の宝物は、姉が実家に宛てて書いた封筒の一部。焼け跡から見つかった。
 阿部義雄さん(61)の宝物は、消防隊員だった亡き息子の遺品の腕時計。息子の遺体と対面した父親は泥だらけの時計を持ち帰った。「今もちゃんと動いているんです」。
 佐々木繁男さん(84)の宝物は、胸の中にある思い出。自宅を流され、妻はいまも行方不明だ。
 坂井小雪さん(74)の宝物は、瓦礫の中から見つけた位牌。自宅は土砂に埋まり、諦めかけていたが偶然見つかった。「これだけは持って逃げろと教わっていた」。

“位牌”で思い出すのは、「警戒区域」に指定されて半強制的に避難させられることになった福島第一原発20キロ圏の住民の話。圏内立ち入り禁止が実施される前日(4/21)、TV局の記者に気持ちを訊かれて、まだ圏内に留まっていた年配の男性が答えた。
「本当に困るんですよ、お墓のこともありますしね。お彼岸もちゃんとやってないんだから」
 次に画面に出てきた中年女性は避難先でマイクを向けられ、「とにかく突然のことだったので、何も持たずに出てきてしまって。位牌だけでも取りに行きたいんです」と語った。

 死せる魂とのつながりの証——それが、最高レベルの非常事態においてなお、彼らの貴重品リストの首座を占めていることに僕は衝撃を受けた。

 震災から2週間くらい経ったある日。ツイッターでこんなエピソードを見た憶えがある。保存していないので、詳細はうろ覚えだが、つぶやきの主は被災地で取材中のジャーナリストだったと思う。
〈避難所の人びとの疲労はピークに達していて、だれも立ち上がるのも面倒な状態。ところが、ある晩、ある人が「海のほうでひとだまのような光を見た」と告げると、多くの人がわれもわれもと海のほうに出かけていった。行方の知れない家族の魂かもしれない。たとえひとだまになっていても一目会いたいと思ったようです。〉

 ……と、ここまで書いて、タイピングする手が止まってしまった。きょうは、ブログをうまく結ぶ言葉がどうしても浮かばない。
 魂のことに、軽々にオチをつけることはできない。そういうことだと思う。

2011年4月21日木曜日

ガイガーカウンター

 昨夜はパリから一時帰国中のYさんを囲んで、知り合いの店でワインを飲んだ。Yさんは帰ってくるたびにフランスのエスプリが薫るお土産をくれる。きのうも、キジやウサギの絵が描かれた可愛らしいパッケージのテリーヌや、料理好きのやる気を掻き立てる本格的なブーケガルニがテーブルに並び、みんなが歓声を上げた。
 もうひとつ、今回Yさんが持ち帰ったものがあった。一見おもちゃの携帯電話のように見える、その黄色い外装のポータブル機器はガイガーカウンター(放射線量測定器)。実物を見るのは初めてだ。ウクライナ製で、Yさんが今月初旬に買ったときは270ユーロだったのが数日前には670ユーロに値上げされていたとのこと。測定機の背面に放射線を感知するセンサーがあり、線量を測りたいものの上にかざすと、前面のモニターに数値が出る。さっそくみんなで服の袖やテーブルやワイングラスや額にガイガーカウンターをあて、どきどきしながら数値を待った。何を測っても、毎時0.08マイクロシーベルト前後。報道で見慣れた、ここ数日の都内の数値と変わらない。

 今朝の朝刊で東大教授の藤垣裕子さん(科学技術社会論)が述べていた。
〈(原発事故後)ガイガーカウンターで放射線を測定して、数値をネット上で公開していた人が複数いました。少なからぬ人が、そのデータをもとに、東京を離れるかどうかを判断していたようです。ネットの発達でいろいろな情報が流通するようになって、かえって混乱を招いたという見方もありますが、私はプラス評価をしています。受け身ではなく、自ら測定して、次の手を考えた。市民の科学武装ですね。科学者が出せるのは確率でしかありません。どこまでのリスクを許容するのかを決めるのは社会機構です。同時に、情報をもとに市民が主体的にリスクを判断していく。その両方を協働させて、リスクを管理していくべきでしょう。〉(朝日新聞、オピニオン欄から抜粋)

 一昨日の夕刊には、こんなベタ記事があった。
〈車盗んだ容疑、自衛隊員逮捕 「原発怖くて逃走」〉
 3/13から福島県の郡山駐屯地に派遣され、放射線物質の除染作業の連絡役を務めていた3等陸曹が翌日「原発事故への恐怖心からパニックになって」、駐屯地から官用トラックを盗み、逃走したというもの。
 この男の行動をわれわれは「腰抜け」「職務放棄」と責めることができるだろうか?

 さらに、ここ数日の報道で僕が心痛しているのが、福島市や郡山市、伊達市の小中学校、幼稚園、保育園(計13施設)で、屋外活動が制限されることになったというもの。
 文部科学省が定めた基準によると、該当する13の施設では、校庭や砂場での屋外活動は1日あたり1時間程度にとどめる。手洗いやうがい、帰宅時に靴の土を落とす、登下校時にはマスクと帽子を着用することなどを勧めている。TVには、放課後、教室脇の廊下を使ってダッシュを繰り返す運動部の学生の姿が映し出されていた。学校の廊下は「走ってはならない」場所の筆頭ではなかったのか? 1時間だと、野球もサッカーもゲームをまっとうすることができない。いまの子どもが放課後にどんなことをして遊ぶのかは知らないが、60分のタイマーをかけられ、それなりの放射能を浴びながら「命がけで」遊ばなければならない彼らが不憫でならない。すべての子どもがマスクを着用し、黙して学校への道を歩くイメージは、まるでSFアニメだ。

 Yさんの話に戻ろう。彼は伊達や酔狂でガイガーカウンターを持ち歩いているのではない。彼の実家は仙台。大きな被害こそ免れたものの、心理的な面を含めご家族はダメージを受けているだろう。パリで震災の報に触れたYさん自身も、深く傷ついたことを僕はよく承知している。ガイガーカウンターはYさんの主体性のシンボルであり、これこそが“市民の科学武装”なのだ。

2011年4月18日月曜日

悲しみのプロセス

 数日前、バリ島に住む友人のTさん(女性)がツイッターでこんなことをつぶやいていた。

〈地震から1ヵ月。この間起こった出来事に自分の気持ち、思いはどんどん変化してきた。はじめは、呆然、それから悲しみ……そんで、悲しみの中に日本人の優しさとかいって心の光を探してほっとしたり……そして数日前からは憤り、怒り。今までの自分の無知さ加減も含めて。〉

『すばらしい悲しみ——グリーフが癒される10の段階』(グレンジャー E.ウェストバーグ著、地引網出版)という本がある。著者は病院の嘱託牧師。グリーフとは喪失や死別に際して人が抱く深い悲しみのこと。この本によると、悲しみには段階がある。いわく……
1.ショック状態に陥る
2.感情を表現する(激しく泣くなど)
3.憂鬱になり孤独を感じる 
4.悲しみが身体的な症状として表れる 
5.パニックに陥る
6.喪失に罪責感を抱く
7.怒りと恨みでいっぱいになる
8.元の生活に戻ることを拒否する
9.徐々に希望が湧いてくる
10.現実を受け入れられるようになる

 Tさんのつぶやきを読み直すと、彼女の心の動きが驚くほど正確に、この本に書かれたプロセスをなぞっていることがわかる。Tさんの他にも、最近僕のまわりには「怒り」や「憤り」の感情をもてあましている人が少なからずいる。かくいう僕も、しばしばTV画面に向かって毒突いたりしている。
 このブログの最初から書いてきたように、今回の災害の被災者は、被災地だけにいるわけじゃない。東京にも関西にも九州にも海外にも「災いを被った人たち」が大勢いる。フランスやアメリカやイタリアやインドネシアに暮らす友人たちの無力感や自責の念を知るとき、悲しみというのは現場からの距離に反比例して減じていくものではなく、逆に遠いほど深まることがあるのではないかとさえ思える。
 先ほどの本に書かれた悲しみのプロセスによると、「怒り」の次の段階は〈8.元の生活に戻ることを拒否する〉である。「被災地以外の人は、なるべく普通の生活をして経済を回してくれなくては困る」という言い方が震災直後から過度な自粛への「対語」として繰り返し使われてきた。いかにもまっとうそうなその物言いに触れるたびに「でも本当にそうなの?」「まだもうちょっと先でいいんじゃないの?」と思ったのは僕だけだろうか? 悲しむべきときに、ちゃんと時間を取って悲しむ。感情や感情によって引き起こされる身体反応(泣く、不眠、悪夢、情緒不安定、食欲不振や食欲過多など)をきちんと表に出す。そういうプロセスを無理に短縮しようとしたり、なかったことにしてごまかそうとしたりしていたら、きっと悲しみのプロセスはうまく進んでくれないだろう。8でネガティブなものを出し切れて初めて〈9.徐々に希望が湧いてくる〉に移れるのだと思う。

 一方で、震災後2週間くらいまでの間、メディアで伝えられた被災者の声のなかで僕の耳に一番多く残ったのは、「悲しい」でも「つらい」でも「怖い」でもなく、「くやしい」と「ありがたい」だった。
 くやしさと感謝の念。この2つの言葉には東北人の我慢強くて心根の優しい気質がよく表れていると思う。悲しみのプロセスで「くやしい」に相当するのは6と7だろう。東北人の気質の何かが作用して、悲しみのプロセスの進行を一気に早めたということがあるのだろうか? 
 もうひとつ、しばしば被災地から聞こえてくる言い回しがある。それは、「自分はまだマシなほうだ」というもの。ふだんなら消極的に響くこの言葉が、いまはとても前向きで力強いものに感じられるのはなぜか? これは一考してみる価値がある。

 映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(ラッセ・ハルストレム監督、1985年)は、僕が最も愛している映画のひとつだ。主人公のイングマル少年は、自分に降りかかる不幸の数々を前に「それでも、宇宙船スプートニクに実験のために乗せられた孤独な犬に比べれば、僕はマシなほうだ」と自分に言い聞かせる。

 言うまでもないことだが、生きることはもともと「災い」や「悲しみ」や「死」を内包している。ところがある種のライフスタイルのなかでは巧妙にそういう部分が隠蔽されてしまう。隠されたものに気づかずに一生を終えることは、たとえば東京のような仮想的な街に暮らす者にとっても、とても難しい。

2011年4月13日水曜日

光と闇

 震災後ライトアップを見合わせてきた東京タワーで一昨日の夜から光のメッセージが灯っている。GANBARO NIPPON。昨夜、銀座方面に用があって、車で向かう途中にタワーの脚もとから見上げてきた。
 タワーを運営する日本電波塔に今回のライトアップ話をもちかけたのは照明デザイナー石井幹子さん。メッセージが見られるのは地上150mの大展望台南東側のみ。GANBARO NIPPON の文字は8400個のLED(発光ダイオード)電球でかたちづくられ、電力は太陽光発電でまかなわれている。太陽光発電システムは三菱化学が無償提供したという。(ライトアップは4/16日まで)
 LEDの控えめな光がつづるはかなげな文字には、いつものライトアップとは別の魅力を感じた。脚もとの公園では暗がりに人びとが集い、静かな花見の宴。これまたいつもの賑やかな花見とは違った情趣があった。
 ニュースタイル、案外、イケるんじゃないかな?

 節電・省エネが大命題となる今後の都市デザインを考えるとき、照明デザイナーの果たす役割はとても大きくなるだろう。石井さんはその道のリーダーとして、そのことを充分に自覚して、今回のシンボリックなライトアップを行ったのではないかと思う。
 川柳作家のやすみりえさんが3/22の朝刊で語っていたことを思い出す。彼女は阪神淡路大震災を神戸で体験した。
〈震災後、どのくらいたっていたでしょうか。光を失っていた神戸の街に、明かりのともったポートタワーが見えました。現実を受け入れなきゃと思いながらも、なかなか気持ちを立て直すことができなかった私の心に「復興」という言葉が刻まれた瞬間でした。〉

 話は変わって、このブログに何度も登場している花巻の岡部さんの、今日更新されたばかりのブログから、被災地の最新状況を見てみよう(本人の承諾を得て、抜粋、引用)。

〈気がついたら、震災から1ヶ月経っていました。けれど、現地の方々は「一日も進んでない。津波は昨日のことのようだ」と言います。
 避難所の食事は、いまだに1日2食や、カップ麺・菓子パン・缶詰に偏っているところがあります。それでも、初めの頃よりはずっといい、と言いますが、放っておいていい問題とは思えません。
 あちこちから届く物資も、「全員の分がなければ不公平になるから」という理由で、集積場に積みっぱなしという話も2カ所で聞きました。大きな避難所ほど発生しています。
 人手がないからなのかと思って、自宅避難の方が手伝いを申し入れると「中の人間でやるからいい」と断られたそうです。事情があるのでしょうが、そういったことで確執が生まれるのも心配です。
 避難所宛に郵便や宅急便が個々に届けられるようになってきました。それはとても喜ばしいことですが、ある家族には食料や現金が届き、外出外食もできるようになる。そうじゃない人もいる。そういった格差も広がってきているようです。〉

 こういうレポートを読むと、テレビや新聞から得られる情報がいかに偏り、「きれいごと」になっているかを思い知る。
 疲弊、サボタージュ、嫉妬、確執、格差……多くの人のいとなみと思いが交錯するということでは避難所も外の社会も同じなのだ。「きれいごと」では済まされない、人間の暗部、心の闇、悪といったものが存在するという事実から、われわれは目を背けてはならない。
 光明はきっとある。しかし、道は遠い。

2011年4月12日火曜日

鈍麻する現実感


(4/11記す)
 震災から1ヵ月が経った。最初の地震が起こった14時46分には、各地で今回の地震や津波や火災の犠牲者、避難後の劣悪な環境に耐えられず亡くなった人びとのために黙祷が捧げられた。「震災から○○日」「震災から○週間」「震災から○ヵ月」という節目で時間を区切ることは、当日の生々しい記憶を呼び戻す効果がある一方で、「もうこれだけ時間が経ったのだから、少しはましになっているはず」という根拠のない楽観気分を非被災地の人びとに与える。しかし、現地に入った人の印象を聞く限り、まだまだ被災地は被災したままである。
 そもそも、「震災から1ヵ月」というときの「震災」は、M9の地震とその後にやってきた津波だけのことを言うのであり、その後の無数の余震や避難者の地獄や原発事故やデマや風評被害や生活被災のことは含まれていない。正確にいうなら、「3・11から1ヵ月」なのであって、震災はいまも起き続けているのだ。
 それを如実に示したのがきょうの大きな余震だった。17時16分に起きたその余震は、福島県浜通りを震源地とし、地震の規模はM7.1(4/7の夜に起きた大きな余震と同じ)。福島県の浜通り、中通りと茨城県南部で震度6弱だった。東京は震度4。どこかで、なんらかの新たな被害が出ていることは間違いない。
 それなのに……
 僕は余震が起こったとき、入浴中だった。バスタブにつかって本を読んでいたら、iPhoneのアプリ「ゆれくる」の警告音が聞こえた。まず心に湧いたのはイヤだな、という感情だった。裸だし、濡れているし、だいいちまだ温まってないし、読みかけの本はいいところだった。ずいぶんとわが感性も鈍麻してしまったものだ。壊れてボロボロになった福島原発の真下で大きな地震が起こっているというのに、イヤだなとは思うものの、すぐに遠くに逃げなくちゃとか、集められるかぎりの情報を集めなくちゃとか、思わなかったのだ。
 無力感が、かたちを変えて、育っている。無力感は諦念に向かうときだけ救いがある。無力感が絶望に向かわぬように、自分を支えなくてはならない。

 ツイッターで拡散されていた、被災地で取材するテレビ局のスタッフの話。「本当は現地のリアルを伝えたい。だけど、局からの指示は『明るい話題を出せ』『復興に重点を置け』『ペットで癒しを与えろ』という指示ばかりなんです」これでは、どんどん被災地が“仮想の国”になってしまう。

2011年4月9日土曜日

東洋のポルトガル

 震災から4、5日経った頃、僕はツイッターでこんなふうにつぶやいた。
〈かつての「心貧しい経済大国」を取り戻そうとするから、経済活動の再開を焦り、被災地の復興が遅れる。われわれが戻りたいのは「年間自殺者3万人の日本」なのか? あの津波の引き波とともに旧い価値観やスタイルは流れ去ったと思えばいい。これからは「貧しくても心豊かな日本」を目指すべし!〉

 歴史家で大阪大学名誉教授の川北稔氏が朝日新聞のインタビュー(4/7朝刊)で話していることも論旨は同じである。今回の震災を文明史論的にとらえて語っており、考えさせられる。少し長くなるが、記事から要約・抜粋してみよう。

〈近代国家でこれだけの規模の災害と事故に襲われた例はありません。被災地以外の生活や経済にも大きな影響を与えています。今後、人びとのものの考え方を変え、歴史の方向性を変えるかもしれません。
 近代とは、経済成長を前提にした時代です。社会の土台に「成長はいいこと」「ゼロ成長なんてとんでもない」という発想がある。私は「成長パラノイア」と呼んでいます。この成長を裏打ちしたのが、地理的な拡大と科学技術の発展でした。15世紀以降、西ヨーロッパの国々は食料や資源、労働力を求めて、世界のすみずみにまで出かけていきました。しかし地球には限りがあります。やがて成長は壁にぶつかりそうになりました。それを突破してきたのが科学技術の発展でした。エネルギー問題を「解決」してきたのも科学技術です。石炭から石油、そして原子力へ。科学技術は経済成長を裏打ちする「魔法の杖」でした。自然の脅威から我々の生命や財産を守ってくれるのも科学技術でした。
 ところが今回、それがいっぺんに揺らいでしまいました。科学技術が生んだ原子力発電所が厄災を生み出し続けています。
 人間がつくりだしたものによって、人間が大きな厄災を受けてしまう。その意味では、今度の原発事故は戦争に似ているかもしれません。
 もしかすると科学者は「今回は失敗したが、基本的には原発は安全」と考えているかもしれません。でも一般の人の印象は違います。原発を新たに造ることは、当分無理でしょう。そうすると、「経済は常に成長するべきだ」という考え方を後退させないと折り合いがつきません。
 科学技術が十分に信頼できるものではないということになると、社会的に、もやーっとした、正体のわからない、妙な不安感が出てくるかもしれません。
 自然災害が政治・経済・社会を不安定化させることは歴史を振り返れば何度もありました。たとえば、17世紀のヨーロッパで起きた気温の大きな低下です。ふだんは凍らないテムズ川まで凍るほどで、凶作に襲われ、深刻な経済危機に陥りました。社会が非常に不安定になり、政治的にはイギリスで革命が起こり、フランスでも大きな反乱が起きました。迷信やデマが広まり、いったん消えた魔女狩りが復活したほどです。
 近代世界を1つのシステムとして見る考え方があります。これによると、世界システムは16世紀の西ヨーロッパを中心に生まれました。その後、大西洋をわたってアメリカに重心が移っていくのですが、全盛期の西ヨーロッパ諸国の中でも消長や興亡がありました。先頭を切ったのはポルトガルとスペインでしたが、やがてオランダやイギリスに抜かれてしまいました。
 いま世界システムの重心がアメリカから東アジアに移ろうとしています。もともと東アジアで先頭を切ったのは日本でした。しかし今後もずっと続くとは限りません。日本は東洋のポルトガルになるのか。
 東日本大震災にからんでメディアで語られるのが、18世紀半ばにポルトガルの首都リスボンを襲った大地震と津波です。人口の3分の1が亡くなったといいます。これがポルトガル没落の直接の契機だとみるのは正しくありません。重要なのは、震災前から地位が低下していたところを襲われたことです。
 電力の問題も今後の国のありようを変えるでしょう。電力不足が長く続くとしたら、いまの東京の姿ではやっていけません。このまま首都の電力の回復が遅れたら、他の地域への移転が進むでしょう。こうした動きを逆手にとって、むしろ企業や役所や大学の一部を「地方」に分散して東京の電力需要を減らす。そうすれば全体としての日本の姿もいくらかよくなる、と私は思います。
 予期せぬ事態が人びとを移動させ、国や都市の姿、経済の形を変えたことは世界史の中でも例があります。
 近代国家で、大規模な被災があった後に復興しなかったところはありません。長い目で見れば必ず復興しています。どうか、そこは希望を持ってほしい。
 日本はかつてのポルトガルのようになるかもしれません。あるいはスペイン、オランダのように。世界のトップ、アジアのトップではなくなるかもしれません。ただし、それが不幸かというと、話は別です。現在のポルトガルを見てください。むしろ、ある意味で安定し、人びとは幸せな人生を送っているのではないでしょうか。
 もっとも、それを「安定」と受け止めるためには、我々の価値観、メンタルな部分が変わる必要があります。以前と同じ、「ずっとトップを走らないと不安」ということでは、「被災後」をうまくやっていくことはできないでしょう。〉

「原発事故は戦争に似ている」という表現で思い出すのは、ファンタジー作家、ミヒャエル・エンデの言葉だ。1988年ごろ、僕はミュンヘンまで出かけてエンデ氏のインタビューをしたことがある。当時、世界的な問題になり始めていた環境問題について意見を求めると、エンデ氏は「人類は今、自分たちの子孫を殺す戦争をしているのだ」と答えたのだった。広瀬隆氏の著書が話題になり、反原発運動が日本で盛り上がりを見せた(けれども、けっきょくは原発を止めることができなかった)のとちょうど同じ時代の話だ。

 ポルトガルには3度行ったことがある。スペインへは、つい半年前の取材旅行を含め、10回は出かけた。いずれもいまは貧しく、経済的にはヨーロッパ連合のなかでもお荷物的な存在だが、人と文化と食と景観の魅力は世界でもトップクラスだろう。なかでも人の情緒が豊かであることは、あるいは「凋落の歴史」の産物かもしれない。
 人はかなしみが多いほど人にはやさしくなれる、というのは海援隊の『贈る言葉』の歌詞の一節。日本人の情け深いメンタリティに“ポルトガル化”は合っていると思うのだが、いかがだろうか?

つらなる思い

(4/8記す)
 3.11から4週間が経った。
 昨夜の宮城県沖を震源地とする巨大な余震は、ようやく少しずつ日常と心の落ち着きを取り戻しつつあったわれわれをあざ笑うかのようなインパクトがあった。最大震度は6強。宮城や岩手の人たちは3.11のときとそっくりな揺れで肝を冷やしたという。僕は東京の自宅でソファに座りTVを観ながら、ときどきうとうとしていた。楽天イーグルスの星野監督が仙台の避難所を訪ねたニュースの途中に地鳴りのようなものに続いてゆっさゆっさと揺れがきた。直感が、東京ではない別のどこかでもっと大きな揺れが起こっていると告げた。星野監督のスピーチは途中で遮られ、画面は地震速報に代わった——。
 きょうになってM7.1に改められたが、昨夜の発表では地震の規模はM7.3となっていた。それだと阪神淡路大震災のM7.2を上回る余震だったことになる。停電した家屋は400万戸。ようやく、残り16万戸まできていた電力復旧は、3.11当時の数字に戻ってしまったかっこうだ。
 夜のうちに、パリで暮らすYさん(実家は仙台)からメールが入った。
〈この怒りは何なんだろうってくらい、腹が立ちました。高速道路も開通して、せっかく仙台市中心部も機能し始めた矢先にこの余震。僕が怒るのは全くの筋違いですが、卑怯ないじめっ子をぶん殴ってやりたい気分です……〉

 花祭り(釈迦の誕生を祝う行事)のきょうは、ふたりの古い友人の誕生日でもある。お祝いのメッセージを書いてもつい震災の話題に触れてしまう。
 ふたりのうちのひとりで、長くバリ島に住むNさんは返信メールにこんなことを書いていた。
〈いま起きている災害のなかでも原発にかかわるすべての状況(ひとことでいえば日本の社会状況)には、やはり唖然としつつ怒りがこみあげてきます。社会全体としてはどうも、臭いモノにはフタ的な事なかれ主義が行き渡っているのではないでしょうか。(略)バリに移住した’95年というのは、やはりそんなふうに日本社会のマズイほうの体質が露骨にふきだした年で、いまの状況と奇妙なくらいに似ているなと感じています。日本が嫌になって逃げだすひとも増えるのかなという気もします。〉
 もうひとりのKさんは、大学生時代、夏休みにイギリスでホームステイしたときに、たまたま滞在先した町が同じで知り合い、以来ついぞ再会はしていないが、互いの誕生日のメッセージだけは絶やさず毎年やりとりしているという世にも稀なる間柄。Kさんは僕と同い年の女性。いまは東京にいるがNYやスイスで暮らしたことがある。彼女の返信メールには、こんなふうに書かれていた。
〈(いまの心理状態は)NYのテロの後、モール爆破やタンソ菌ばらまき事件などで異常な緊張感で生活していたのと同じくらいです。でもNYにいた時は、最悪日本に帰国すればいいという逃げ道がありましたが、今はなく、東京人はここで生きるしかないんだなあと腹をくくっています。といいつつ、福島原発が明日爆発するかも、という13日にはさすがに子供をつれて、いとこのいる倉敷に一週間疎開しました。(略)疎開してみて東京で生きる意味、というと大げさですが、人とのつながりや仕事の在り方などいろいろ考えることができました。そういえば、15年ほど前のヨーロッパでのBSE(狂牛病)でもばっちりスイスにいて、今も輸血禁止の身です。あの時も、ある日を境に街中の肉屋から客が消えるというすごい光景を見ました。2012年の予言ではありませんが、今を生きるしかないなあ……と改めて思いますね。となると、どう生きるかが問題かな。〉

 きょうはここで筆を置こうかと(のではなく、パソコンをスリープにしようかと)思ったところに、花巻の岡部さんからメールがきた。彼女は今朝も停電・断水のなか目覚め、北上市の物資保管場所に仕分けに行っていたそうだ。昨夜の余震も尋常ではなく、道路や家屋の被害は本震のときより大きいと現地の人たちは言っているようだ。明日は大槌町へ物資を届けにいくという彼女。メールの最後は、こんなふうに結ばれていた。
〈沿岸に行く前日はいつもうまく眠りにつけません〉

※メールからの引用については、いずれもご本人から了承を得ています。

2011年4月7日木曜日

花より先に菌の話

 今回の地震で震源地附近の海底の地盤は24mも東南東に移動したのだそうだ。驚くべきは、いまも移動が続いていること。どうりで余震が多いわけだ。もともと日本とハワイの距離は年間3㎝ずつ縮まっていると聞いたが、一発で800年分も縮まったということか。

 放射能汚染や風評被害で将来的な品薄が心配される野菜や魚は比較的従来通り店頭に並んでいるのに対し、東京のスーパーなどでここ数日、手に入れるのが困難だったのはヨーグルトと納豆。牛乳はひと頃よりはるかに流通量が回復したが、関西から取り寄せたものなど、見たこともないパッケージが増えた。ヨーグルトが少ないのは原乳の不足が原因なのではなく、計画停電の影響。ヨーグルト製造には通常6時間程度、完璧に温度管理しなくてはならない工程があり(おそらく発酵)、停電があるとそれができないため、生産量が激減しているのだそうだ。もうひとつの納豆については、茨城県産の大豆の被曝……ではなくて、パッケージに使うフィルム(原材料とか内容量が記されたやつ)の工場が被災したため包装ができず、中身の納豆は造れるのに、商品として出荷することができないのだという。せっかく造った納豆の行方が心配になるが、食品衛生法上、表示フィルムのない製品を販売することはできないが、寄付することは問題ないとして、被災地の避難所などに届けられているらしい。
 ヨーグルトも納豆も人間の叡智が生み出した発酵食品であり(というよりも、微生物というこの星の支配者が生み出した食品というべきか)、健康にもよいとされるもの。毎日口にするのを習慣にしている人が多いものだから、これまた生活被災に違いない。夜のワインと同じくらい、朝のヨーグルトを習慣にしているわが家でも重大問題である。

 ここ数日、メディアでよく報じられているものに「災害弱者」の問題がある。被災地では強健な人でさえ、劣悪な環境とストレスに疲れ果てて弱るのに、乳幼児や老人、病人、心身に障害のある人びとなどは尚更である。たとえば自閉症の人はもともと感情を抑えるのが難しい。避難所のような環境ではふだんにも増して叫声を上げてしまったりする。家族は他の被災者への遠慮から、避難所に居づらくなり、さらに劣悪な場所へと移る。ある老人は集団生活に馴染めず、1週間で7箇所もの避難所を転々とすることになったという。幼子が夜泣くものだから、戸外に連れて出てあやす親が冷えて体調を崩す。
 阪神淡路大震災のとき、地震や火災では生き残りながらも、避難所で亡くなった人が約900人いたそうだ。そのうちの4人に1人が肺炎で命を落としたという。水が不足している避難所では満足に歯も磨けず、口をすすぐこともできない。もともとが疲弊しているところに口中の細菌が繁殖し、肺まで降りていって炎症を引き起こす。
 今回の被災地では、瓦礫の片づけに出る人のなかから破傷風が何人か出ている。菌が入った傷自体は指先のちょっとした傷にすぎないのだが、やはり抵抗力が極度に下がっているのだろう。これから、ばい菌たちが好む暖かい季節がやってくることを考えると、被災地の明日はまだまだ明るくない。

 桜前線がどんどん北上している。花見で元気を出そうという発想も悪くない。しかし、花は来年も再来年も咲くだろう。それよりも、いま、目をそらさずに見るべきものがあることを忘れてはならない。

2011年4月6日水曜日

海よ!

 TVの天気予報は全国的に快晴だった。日本地図の上にずらりとお天道様マークが並び、雲はかけらもない。小さな日本といえども、滅多に見られない、「壮観」と呼びたくなるような画面だった。
 被災地も、原発事故で避難を強いられたあの土地も、友や家族の住むあの土地も、そして僕の住む東京の空も、どこもかしこも、まるでなにかのご褒美のような快晴! そして桜の花はまたグンと開いて——こういう当たり前のことを、いまは大げさにありがたがりたい。

 福島第一原発2号機のピット付近から流出していた高濃度の汚染水がよくやく止まったと、いま来たばかりの夕刊が告げている。止まらないより止まったほうがいいのは当たり前で、よろこぶべきところだが、すでに海へ流出してしまった莫大な量の放射線物質のことを考えると、とうてい拍手する気にはなれない。
 かつて原発の施工に携わり、自らの経験から原発の危険性を告発し、1997年に亡くなった平井憲夫という人の書いたものがツイッターで紹介されていた。阪神淡路大震災の直後に書かれたもののようだが、これを読むと、原発のつくりや管理がいかに素人仕事で、いかに杜撰か、また今回の悲劇はじつは15年も20年も前にすでに始まっていたことがわかる。さらには、今回の原発事故の処理がおよそ一筋縄でないことも。
http://ma20da1.posterous.com/48355855
 平井さんの文章には、放射能汚染水の海への垂れ流しがすでに90年代には定期点検のたびに行われていたことが書かれている。
 茨城の沿岸で獲れたコウナゴから規定値を上回る放射能が検出され、放射線濃度の低いはずの沖合いで獲られたボタンエビや金目鯛の陸揚げが千葉の漁港で拒否されたのはいずれも昨日のニュースだが、もしかして、いままではちゃんと海水や海産物の放射能値を量ったことがなかったのではないかと疑われる。

 僕は兵庫県北部の日本海に近い海産資源の豊富な土地で育ったので、魚介類に人一倍愛着があり、東京でも頻繁に食べている。刺身は週5回くらい食べるんじゃなかろうか? だから海が汚染されるのは困るのだ。すでに遠い過去から汚染されていたのだとしたら憤懣やるかたない。

 数日前の新聞に出ていた目の不自由な被災者の話。
 宮古市、鍼灸師多出村伸一さん(54)「自宅兼鍼灸院が流されました。全盲なので、海がザーッと迫ってくるような音から逃れるように夢中で走りました。地震後、息子に町の様子を解説してもらいました。海の音も風の音も、聞こえ方が違う。すっかり変わってしまったんですね」
 
 きっと海の中も、すっかり変わってしまったに違いない。

2011年4月5日火曜日

桜を、ワインを

 今日もわが愛する林試の森公園を走ってきたが、園内の桜は三分咲き。ここ数日は気温が低そうなので、満開まではまだ1週間くらいかかるだろう。

 雑誌やマンガや本に続いて、ワインを被災地に届けるというプロジェクトが次第に軌道に乗りつつある。ことの発端は、先週水曜日、某ワイン関連組織に招かれて、ワインと桜を楽しむ夕べ(桜的には時期尚早だったが)に出かけた際、主催者側のKさんと話したことだった。手短に言うと、「被災地に救援物資としてワインを送ることは是か非か」ということ。もしも是ならば、ぜひ協力したいとKさんは言う。帰宅後さっそく、被災地の状況について問い合わせてみたら、届ける側の自主規制で酒類を持っていくのは控えているとのこと。TVで連日、あちこちの避難所のようすが映し出されているが、そこにアルコールを飲んで酔っぱらっている人の姿があったら、どうだろう? それを観る人たちの過剰反応は容易に想像できる。物資を届ける側が自主規制するのも無理はない。それでも、「飲みたい人がたくさんいるのは間違いない」とのことで、時期と場所を選べばニーズがありそうな感触だった。
 翌日、気仙沼の交通が遮断された地区に物資を運ぶ予定のあるMさんが、僕の問い合わせに応じて、ワインを持っていってみたいとメールをくれた。とりあえず3ケース、Kさんのことろから送ってもらうことにする。
 さらにその後、大きな展開になりそうな話が花巻の岡部さんから飛び込んできた。36歳の若き岩手県議、高橋博之氏(http://hiroyuki-t.jugem.jp/)が被災地・陸前高田市で被災者による花見を企画、その会場にワインを届けてもらえたらありがたいとのこと。この動きはツイッターなどを通じて広く拡散しており、陸前高田で花見の行われる4月17日に全国各地で“同時多発花見”をして盛り上げようというムーブメントになっているようだ。
 都内では花見も自粛の方向である。「被災地で被災者が花見」というアイデアに僕は虚をつかれた。たしかに、花もワインも、心を和ませるものは、被災者の人たちにこそ相応しいのかもしれない。

 フランスワイン関連のKさんに続いて、某ワイン輸入業者など複数の人が「被災地にワインを!」の動きに賛同の意を示し、供出を検討してくれている。僕はワインの力を信じているので、ぜひスムースに被災地に受け入れられ、役に立ってほしいと思う。そのためには、まず、非被災地の人たちの間に「被災地の人たちだって、ワインを楽しんでいいじゃないか」というムードが醸成されなければならない。
「ワインほど一人で飲むのが似合わぬ酒はない」
「ビールは人を攻撃的にするが、ワインは人を友好的にする」
 ワインにまつわる名言・格言は無数にある。適量を飲むかぎりにおいては健康効果も期待できる。不安や不眠を和らげる助けにもなるかもしれない。そして、今回の悲劇が契機となって、東北の人びとの間にワインが劇的に浸透し、将来的に一大消費地になる……なんてことを夢想したら、不謹慎だと叱られるだろうか?

この春も 桜の花の咲くことを よろこびとする かなしみとする

2011年4月4日月曜日

ニューライフ、ニュービジネス

 一昨日、TVのワイドショーが震災後のライフスタイルの変化について東京の人びと(主に主婦層)に取材したものを紹介していた。
 枕元に貴重品や防災セットを置いて寝るようになったという人。靴下をはいて寝るようになったという人。節電のために、コンセントからプラグを抜くようになったという人、電灯を消し真っ暗にして入浴しているという人。遠出をしなくなったという人。外出時にパスポートと小さな懐中電灯を持って出るようになったという人。夕食時の明かりをろうそくに代えたという中年の主婦は、「おかげで、すっかり冷えていた夫との間に会話が戻りました」と顔を赤らめていた。
 きょうのNHKのニュースでも同様のテーマが取り上げられ、通勤手段を電車から自転車に換えた人の話や歩きやすいスニーカーが働く女性たちに売れているという話が紹介されていた。
 都市生活者の変わり身の速さには驚くばかりだ。防災も節電もモードを追うように楽しもうと言わんばかり。このスピードがキープされたままで人びとの意識とスタイルが変わっていけば、根本的な「チェンジ」も夢ではないかもしれない。そうして消費電力が40%くらい減れば、夏場の需給バランスも供給プラスで乗り越えられるだろう。
 震災に遭ったいまこそ、経済を回すために被災地以外の人は普通の生活をしろ、お金を使え、ともっともらしく言う人がいるが、僕にはどうも違和感がある。この違和感の正体については別の機会に述べるとして、震災後のライフスタイルの変化をビジネスチャンスととらえて経済活動を活発にするということなら、僕にもピンとくる。「防災」や「節電・省エネ」「サバイバル」を売りに新商品や新サーヴィスを開発する。あらゆる分野でデザインも重要だ。ファッションの出番がようやくやってくる。食品関係だって災害を切り口にすればいくらでも新商品が出てくるだろう。新生活様式や新マナーを教える職業や資格もありうるだろう。自転車専用道の整備を本気でやれば雇用促進、間違いなし!……(いっそのこと、俺が東京都知事に立候補すればよかった?)

2011年4月1日金曜日

ひとりになって交わる

 震災から3週間が経った。東京は雲ひとつない晴天。
 ベランダのプランターで栽培しているルッコラに白く可憐な花が咲き風に揺れているのを見てハタと思いついた。簡単に栽培できる野菜や花の種を被災地に届けてはどうか? ルッコラは発芽率もほぼ100%だし、生長も早い。葉が出たらどんどん摘んでいってサラダで食べるといい。イタリアでは一種の強壮剤とされているくらい栄養価が高く、ナッティな風味と辛みのある味は病みつきになる。何度か葉を摘んでいくと、やがて薹が立ってきて花が咲き、びっくりするほどのタネが取れる。もともと雑草のようなものなのだろう、強靱なのだ。立派な畑でなくとも、避難所や仮設住宅の前の空き地でどんどん育つだろう。東京では年中栽培できるが、真夏だけは暑すぎてよくない。冬場に育ったものが美味いくらいだから、きっと東北地方の気候にも向いているだろう。震災をきっかけに、東北にルッコラの一大産地ができるなんて、悪くない話じゃないか。

 花巻の岡部さんとの連携で始まった「被災地に活字を!」プロジェクトは、メールやツイッターでの呼びかけに多くの賛同者が手を挙げてくれて、大槌町ルートを始め、3つのルートに今日時点で計27箱を発送することができた。正確な冊数はわからないが、1000冊は優に超えているだろう。最初は仕事で付き合いのある出版関係の人たちに声を掛け、そこからそれぞれの人脈で広げてもらったのだが、僕自身を含めて、本や雑誌に関わる者にも何かやれることはないかと模索していた人が多かったようで、多くの人が嬉々として——という表現は不謹慎かもしれないが——、とにかくひじょうに積極的に関わってくれた。
 なかには「うちは会社単位で同じようなことを考えていて、そっちに本や雑誌を供出するように言われている」というところも数社あった。僕の立場としては、会社は会社でどんどんやってくださいというものだ。ただ、大きなところがやることはそれなりに時間がかかるし、届け先も大きな避難所とか組織ということになるだろう。血管に喩えれば、それは大動脈的な動き。対して僕がやろうとしているのは、毛細血管的な動きだ。
 今後も、被災地の細かなニーズに合わせて柔軟に、継続的にやっていければと思う。
(ツイッターでは、この件に関して随時、情報・作戦を流している。ハッシュタグは、#marukatz )

 以前にこのブログでも紹介した恐山の僧侶、南直哉氏のブログ、「恐山あれこれ日記」(http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/)に、こんなくだりがある。

〈私は、「価値観を共有する」という思い込みとか、「みんな仲間だ」的意識による人間関係をまるで信じていません。価値観を媒介とするなら、その価値観を持たない人を排除するでしょうし、「みんな仲間だ」意識は、事情が変われば、あっという間に蒸発するでしょう。私が信用できる関係は、様々な困難や苦境に直面し、挑戦し、乗り越えていく経験を共に分かちあった人間同士に結ばれる関係です。〉

 今回、いわばなりゆきで「被災地に活字を!」のとりまとめ役をやらせてもらっているが、過去にボランティア体験も皆無で、とにかく日々未知と発見の連続である。最大の発見は「絆」だろう。今回すでに20人を超える人びとに携わってもらっているが、僕が強い絆を感じるようになった人のなかには一度か二度会っただけの人や、まだ一度も顔を合わせたことのない人がいる。それとは逆に、誰との関係が「我欲」や「打算」のためのものだったかが自ずと見えてきてしまって恐ろしいかぎりだ。僕は、今回の津波で過去の価値観や旧いスタイルはすべて流されたのだと機会があるたびに言っているが、平素の自分の人間関係についても問い直さずにはいられない。この話は、書けば書くほど過激になってアブナイので、このへんでやめておくが、その前に、小林秀雄と妹の高見沢潤子の対話から引用しよう。

〈「ボンヘッファー(註:ドイツの神学者)が“交わりのできない人は、ひとりでいることに注意せよ。ひとりでいることのできない人は、交わりに注意せよ”といっているのと同じじゃないかしら。」
「同じことだね。ひとりでいることのできない人、いつでもおおぜいで陽気にさわぐことばかり考えている人は、まじめになることができない人だ。まじめになるときをぜんぜんもたないで、それをどうして苦痛に感じないのか、不思議だよ。それと反対に、交わりのきらいな人は、生きる、ということを知らない人だよ。人間は、どうしたって、他人とともに生きなきゃならないからね。」
「それから、こうもいってるわ。“交わりの中においてのみひとりでいることができ、ひとりでいるものだけが、交わりのなかに生きていくことができる”って。」
「(略)ほんとうにいい交わりのできない人は、ほんとうに、純粋にひとりになりきれやしないよ。他人に心から協力しようとする気のない人は、自分に対してだって、協力できないから、自己統一の力がないことになるのだ。だから、利己主義という自己防衛の形になってしまうのだ。」〉
(高見沢潤子『兄小林秀雄との対話』講談社現代新書)