2011年5月17日火曜日

東北の被災地へ(後編)

(前回のつづき)
 長さ100メートルくらいのトンネルのなかを僕らはSさんに従って歩いた。いまは車が通るようになっているが、震災後しばらくは土砂と瓦礫で埋まり、完全に閉塞されて、もちろん往き来もできなかったという。
 トンネルの出口に立つと、われわれの前は海まで続く瓦礫の原だった。右側に、背後の杉林に向かって上っていくにしたがって狭まる三角形の土地があり、その中ほどに木造2階建てのSさんの家が建っていた。1階部分は津波が突き抜けた痕があり、外側に物が当たって傷んだ箇所がいくつかあったが、構造自体はちゃんと残っていた。
 Sさんは3月11日、この家で地震に遭い、外に飛び出して玄関先で津波を目撃し、それが眼前に迫るのを見てから裏手の杉林に走って逃げて難を逃れたのだった。
 Sさんの家の1軒海側の隣家は津波で消失している。逆に裏手の隣家は建物全体に何の損傷もないように見えた。つまり、Sさんの家の1階に津波の到達ラインがあり、その線が被害の有無を分けたのだ。
 1階の駐車場部分から家のなかにお邪魔させてもらった。台所と居間はすでに土砂も瓦礫も片づけられてがらんとしていた。流しに残った蛇口だけがかつてここに人の営みがあったことを告げていた。壁や柱には大人の胸から目の高さに津波の到達したことを示す染みが残されていた。家のなかは消毒剤の臭いがした。水に浸かった場所は消毒剤を撒いておかないと虫がわいたりするのだそうだ。畳が上げられ、壁に立てかけてあったが使い物にはならぬようだった。
 海側の小部屋に、部屋の大きさには不釣り合いなグランドピアノがあった。津波で浮き上がり、転倒していたのを自衛隊員が起こしていってくれたのだとSさんが教えてくれた。蓋を開けてなかを見ると、鍵盤はすべて揃っていたがいくつかは位置がずれていた。鳴らすと湿った音が出たが、元通りの音色を奏でることができないのは明らかだった。
 家財の大半を失ったSさんが、それでもひとつ貴重なものが残ったのよと見せてくれたのはアルミの箱に入った手紙の束だった。それは今年63歳になるSさんが若かりし頃いまのご主人にもらった手紙だった。
 ピアノは正しい音色を失ったけれど、古い愛の記録は残った——。
 またしても僕は痛感した、被災した人の数だけ事情というものがあるのだということを。

 Sさんの家を辞したわれわれは再びトンネルの薄闇をくぐってお寺のところに戻り、避難所の人たちに再び別れを告げて、車に乗り込んだ。
 先導する岡部さんの車は、僕らに大槌町の被災の中心地を見せるべく海辺の激甚被災地へと向かった。

〈又同じころかとよ、おびただしく大地震(おおない)振ること侍りき〉
 元暦2年(1185年)にあった大地震のことを鴨長明は『方丈記』に記している。〈そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌(いわお)われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にただよひ、道ゆく馬は足のたちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廊、ひとつとして全(まった)からず。或いは崩れ、或いは倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るる音、雷(いかずち)にことならず。家の内にをれば、忽(たちま)ちにひしげなんとす。走り出づえば、地われさく。羽なければ、空を飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ〉

 ビルごと津波に打たれ、見るも哀れな残骸となった大槌町役場の前でわれわれは車を停めた。ここで町長以下、多くの職員が地震直後、対策会議の最中に津波に襲われ、落命したのだ。再び降り始めた小雨のなかへ、吉田さんがカメラを手に車を降りていった。僕も自分のカメラを携えて後を追った。
 どの建物も、建築時の強度の差に関係なく、1階・2階部分はズタズタに引き裂かれ、ガラスというガラスは砕かれていた。破られた壁からは断熱材の残骸が吹き流しのように風にはためいていた。
 僕はぐるりと回って360度を眺めてみた。パーツとしてはどれもニュースなどで見たことのある光景のはずだったが、それらが連続し、果てしなく広がるのは想像を絶するインパクトだった。その場に立って自分の目で見ることは、フレームなしに動画で見ることであり、思いのままにズームインもズームアウトもパンもできる。自分の脳に備わった、その特殊な能力が50日前にそこで起こった災厄をリアルに再現していた。

 大槌町を後にしたわれわれは少し南に下ったところにある釜石を目指した。前述の警察庁の調べによると、釜石市は死亡813人死亡、行方不明約540人、避難者は約3610人である。
 距離にして20キロくらい。大槌と釜石は間にリアス式特有の狭い入り江をひとつ挟んだだけなのに、被害の状況はまったく異なっていた。海底の形状や陸の地形、傾斜などによって津波の暴れ方に違いがあったことがわかる。
 釜石のメインストリートは道の両側に同じくらいの規模の個人商店が軒を連ねる、70年代後半からとくに地方都市に多く見られるようになった典型的な商店街だ。ここを襲った津波は高さ2メートル前後であったらしく、商店家屋の1階部分を壊滅させつつも——ちょうど大槌町で見たSさんの家と同じように——建物の構造と2階部分は壊さなかった。使い物にならなくなった商店街には人影もほとんどない。それなのに、一応商店街の体だけは残っていることが、そこの光景を見る者を余計に落胆させるようだった。

 釜石を走り抜け、われわれが帰路に就いたのは午後2時くらいだった。来たときと反対に、ある境界を越えた途端、あたりは春爛漫の美しい東北に戻った。車を運転しながら、C.S.ルイスの『ナルニア国の物語』みたいだと僕は思った。洋服ダンスの扉を開け、吊されたコートをかき分けるようにして奥に進むと、突然、雪原に出てしまう。そこには妖精が支配する異世界が開けており……
 車内では誰もがわれに返ったような、呼吸を取り戻したような、不思議な気分を味わっていた。そして口々に「来てよかったね」「よかったね」「来ないとわかんなかったね」と感想を呟いた。

 遠野の道の駅に再び立ち寄り、よく混んだ食堂で反省会をした。岡部さんは午前中に行った自宅避難の集落の、きちんとケアがなされていないようすが気になっているようだった。まだまだ支援すべき人、こと、場所はたくさんあり、継続することが大事だと話し合った。
 現地組の4人とはここで別れることになった。前夜顔を合わせてから20時間も経っていなかったが、そこにはすでにタイトな絆があるように思えて、別れるのがつらかった。
        *          *
 数日後、吉田さんからメールが届いた。そこには彼が被災地で撮ってきた写真が収められたアルバムのURLが記されていた。僕はそこにまとめられた写真を子細に眺めてから、吉田さんに返事を書いた。

〈見ていると悲惨で苦しいけど、それでもまだまだ見たくなる。不思議な世界だったね。表現ってなんだろう? 伝えるってなんだろうと思わずにはいられない〉

 すぐに吉田さんからまたメールが来た。

〈そうですね。僕ももっと見たくなります。見たことのない世界に対する野次馬的好奇心なのか、現実をこの目で見て、逃げずに受けとめたいからなのか、写真に携わる「端くれ」としての使命感からなのか…。いろいろな気持ちが混ざっている感じですね。だから、この写真について何かを言おうと思っても、中心になるものがブレていて、うまく言葉が出てきません。ただ、この目で見ておいてよかったという思いは変わりませんが。そういえば、僕はエッセイストとしても伊丹十三が好きなんですが、本の中にこんな言葉がありました。
『逃げないこと 現実を見ること 自分が見た現実に対して正直であること』
 この3つで大抵の問題は解決するもんだ、と。それでいくと、現実を目の当たりにして揺れている自分、というのが僕にとっては正直なスタンスなのかも知れません。この「揺れ」の中に、すごく大切なものがあるような気がするのですが、何だか形がはっきりしません。〉

※吉田さんの写真は、下記から見られます(本人、承諾済み)。
http://gallery.me.com/panda_yoshida#100119

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