2011年3月29日火曜日

被災地へ活字を

 先日ブログで書いた花巻の岡部さんから午前中に電話。大槌町の避難所から電話をくれたようだ。
「絵本はこちらに絵本文庫みたいなのがあって、すでに足りているもよう。いま必要なのは大人が読む雑誌やマンガだそうです」
 物資のニーズは日々刻々と変化しているというが、“心の糧”に関しても同様なのだろう。さっそく、すでに協力を表明してくれている人や編集仲間にメールして、リサーチをお願いした。闇雲に集めても収拾がつかなくなるので、当面は顔のわかる人の間で、と思ったが、すでにツイッター等で広まってしまったようだ。
 岡部さん=大槌町ラインに続いて、仙台に個人的に物資を運んでいる人がいることがわかり、そちらにもアプローチした。花巻を拠点にした別のルートも見えてきた。
 某出版社に勤めるOさんからは、「自己啓発本(生き方指南)と料理本はやめてほしいと現地の人が言っている」との情報。美味しそうな料理は食べたくても食べられないから目の毒だということだろう。非被災者の想像や憶測とは違うところに現実はあるのだと思い知る。

 3日前NHKで、女川町で被災した自閉症児のまさきくんのことが紹介されていた。まさきくんはピアノの名手。譜面がなくても、ちょっと曲を聴いただけですぐに再現できる。避難所になっている学校でラジオ体操の曲を弾いて伴奏したことをきっかけに、みんなのリクエストに応えてさまざまな曲を演奏し、被災者の心を和ませているというもの。きょうも民放で取り上げられていたようだ。
 この話をツイッターでつぶやいたら、くだんの岡部さんからこんな反応が返ってきた。
〈観ました。誰しも、役割ができると生き生きしますね。手を出しすぎない支援が大切かも〉
 役割ができると生き生きするとは、まさにいまのわれわれのことだ。熱くなりすぎて、自分の生活がおろそかになったり、早々に疲弊してしまったりすることがないよう、気を付けなくてはと思う。

 すでにいろんな人が紹介しているので、読んだ人もいると思うが、東京の看護士さんで被災地に救護活動に行っていた人のブログは、報道には出てこない被災地の実際が克明に描かれていて、今回起こったことを知るよすがとなる。
http://blog.goo.ne.jp/flower-wing

2011年3月28日月曜日

池田晶子さんの遺した言葉

 哲学者の池田晶子さん(2007年没)が13年前に新聞で述べたことが、驚くほどいまのわれわれに当てはまり、考えさせられる。少し長くなるが、引いてみよう。

〈現在の日本に生きる人々は、自分が何のために何をしているかを自覚していませんね。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きているから、いったんその価値が崩れると慌てふためくことになる。精神性の欠如という点で、かなりレベルの低い時代と思う。
 現代世界全体がそうだが、物質主義、現世主義、生命至上主義です。欲望とか生活とか、そういったことの人生における意味と価値を、根っこからきちんと考えたことがない。だから、金融不安など大事件のように騒いでいるが、先が分からないのは別に今に始まったことではない。生存するということは、基本的にそういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと私は思う。
 地球人類は失敗しました。率直なところ、私はもう手遅れだと思う。この世に存在した時から、生存していることの意味を問おうとせず、生存することそれ自体が価値だと思って、ただ生き延びようとしてきた。結果、数千年かけて徐々に失敗した。医学なども、なぜ生きるのかを問わず、ただ生きようとすることで進歩した。何のための科学かという哲学的な内省を経ていない。
 ただ生きるのが価値なのでなく、善く生きること、つまり、より善い精神性をもって生きることだけが価値なのです。内省と自覚の欠如が、人類の失敗の原因だが、手遅れだといって放棄していいのではない。常により善く生きようとすることだけが価値なのだから、それを各人が自分の持ち場において実行するべきなのです。
 政治にしても、問題は、政治家が「よりよい」と言うときの、その意味です。彼らの言う「よい」とは、「善い」ではなくて「良い」、良い生活が人間の価値であることを疑ったことがない。しかし、人生の幸福は精神の充足以外あり得ません。物質に充足した人が、必ずしも幸福だとは思っていないのはなぜですか。みんな自分を考えるということを知らない。考え方を知らないというよりも、そもそも「考える」とはどういうことかさえ知らない。
 国民の側も、他人のことを悪く言えるほどあなたは善いのですかと、私はいつも思う。汚職した官僚や政治家はむろん悪いが、その悪いことをした人を、得をしたとうらやんで悪く言っているなら同じことだ。嫉妬と羨望を正義の名にすり替えているだけだ。
 世の中が悪いのを、常に他人のせいにしようとするその姿勢そのものが、結局世の中全体を悪くしていると思う。政治家が悪いと言っても、その悪い政治家を選んだのは国民なんだから。にわとりと卵で、どうしようもないと気づいた時こそ、「善い」とは何かと考えてみるべきだ。一人ひとりがそれを考えて自覚的に生きる以外、世の中は決して善くならない。
 税金の引き上げ引き下げで、生活が良くなる悪くなるという話以前の根本的な問題です。
 むろん政治は、生活する自我同士の紛争を調停するのが仕事なのだから、政治家はそのことに自覚的であってもらいたい。政治家が人を動かし、政策を進める時の武器は「言葉」のはず。しかし、現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。言葉を大事にしない国は滅びます。
 だからと言って、「保守主義」とか自分から名乗るのもどうかと思う。なんであれ「主義」というのはそれだけで空疎なものだ。自分の内容が空疎だから、そういう外側のスローガンに頼りたい場合が多いのではないか。やはり、各人の精神の在り方こそが問われるべきだ。
 問題はそんなところにない。要は、政治家から国民まで、一人ひとりの生き方の自覚でしかない。だからこそ「考える」ことが必要だ。考えもしないで生きているから、滅びの道を歩むことになる。考えることなら、今すぐこの場で出来ることです。
(中略)
 半世紀戦争がなかったことが大きいと思うが、みんな自分が死ぬということを忘れている。人がものを考えないのは、死を身近に見ないからだと思う。と言って、永遠に生きると考えているわけでもない。漠然としたライフプランで、なんとなく生きている。一番強いインパクトは死です。人がものを考え、自覚的に生き始めるための契機は死を知ることです。
 制度を変えても、精神の在り方が変わらなければ、世の中は決して変わりません。〉(読売新聞、1998年4月1日より)

自粛する理由

 日曜の午後、陽のあるうちに少し近所を散歩することにした。林試の森を縦断し禿(かむろ)坂を半ばまで下って桐ヶ谷斎場の方へ進む。東急目黒線の地下化が進められているあたりは、ごちゃごちゃと入り組んだ古い家並みが工事のせいで剥き出しになっている。車の通れぬような小径がL字を成し、坂を成して、向かい合って建つ片方の家の1階が他方の2階だったりしていた。こんなところに大きな地震や火災が来たらたいへんそうだと、ついそういうことに思いが至る。道端に立つ自治体の掲示板に「花見会中止のお知らせ」が貼ってある。ここにも自粛ムードが押し寄せていた。

 家に帰ってTVを点けると、甲子園球場の高校野球ではブラスバンドの応援が自粛でなくなり、アルプススタンドの学生たちは口まねで音楽を奏でていた。

 一方で、「自粛なんてしないで、ふだん通りに元気に楽しんで、経済を回してください」という声が被災地から届く。ある写真家は地震の翌日に救援物資を持って被災地に入り、数日間現地で過ごして東京に戻ってきたら、「東京の方が暗く沈んでいて驚いた。被災地の人びとのほうがよほど生き生きしていた」と言ったそうだ。

「在京被災民」として僕は思うんだけど、自粛は、地震や津波で犠牲になったり、原発事故で難儀している人の気持ちを慮ってということももちろんあるが、それ以上に、われわれ自身がまだショックと不安のうちにあって楽しんだり騒いだりする気が湧いてこないということから起こっているのではないだろうか? われわれ非被災地で暮らす者の多くが感じているのは「無力感」であり、理不尽な「罪悪感」だと思う。どこの町だか忘れてしまったが、被災地の人びとを歌で励ましたいと録画録音している小学生のニュースがあった。その中でひとりの少年がこう言った。
「TVで地震や津波のようすを見たとき、災害に遭ったのがどうして僕じゃなく、あの人たちだったんだろうって思いました」
 奇しくも、この談話は、先日友人Nさんに教えてもらって読んだ恐山の僧、南直哉氏のブログ(『恐山あれこれ日記』)に書かれていたことと同じだった。南氏はそれを「無常」と結びつけていた。
 僕のいう「無力感」「罪悪感」というのも、感覚としては彼らの言っていることに近い。誤解を恐れずに極端な言い方をすれば、東京が震源地で僕らが津波に見舞われていたほうがマシだったとさえ思えるのだ。
 このブログのタイトルに目黒被災という言葉を選んだとき、ひとつには放射能汚染だとか停電、物不足、交通混乱など、われわれが東京にいて物理的に被っている被害を念頭に置いたのだが、もうひとつ、より根の深い、そして実際の被災地とは別種の「被災」について考え、述べたかったということがあったのだ。

2011年3月27日日曜日

花巻の岡部さんのこと

(3/26記す)
岩手県花巻市に住む岡部慶子さんが携帯メールで何年かぶりの便りをくれたのは震災の8日前、3月3日のこと。僕が某女性誌に書いたスペインの記事を目に留め、スタッフクレジットに僕の名前を見つけて、久しぶりに連絡してくれたのだ。

岡部さんは、画家・イラストレーター永沢まことさんの門下生で、本人も生徒さんをもって絵を教えたり、スケッチのイベントを催行したりしている。永沢まことさんの本や画集の企画編集を僕がやらせてもらっていた縁で岡部さんと知り合ったのは10年以上も前のことだ。明るくてオープンマインドで行動力があってちょっとお茶目なところもある岡部さんとはすぐに腹を割って話せるようになったことを覚えている。東京出身の岡部さんがご主人の仕事の関係で花巻に引っ越されたことまでは聞いていたが、長らくご無沙汰していた。

3月11日。地震が起こってすぐに思ったのは岡部さんの安否だった。携帯メールを送ると、「温泉に入っていてパニックでしたが無事です。東京もすごそうですね、大丈夫ですか?」と逆に心配してくれた。

震災から丸2週間が経った昨日、再びメールで様子を訊いてみた。岡部さんは被災地のための物資調達と手配の手伝いをしているとのこと。そして、「ブログを通して被災地に配る絵本を集めています」とのことだった。このやりとりをするうちに僕の頭のなかにピカッと電球が灯った。

被災地では水や食料や毛布や燃料や医薬品がゆきわたると、次には清潔な下着や服や靴が必要になる。歯磨きセットや入浴の機会、散髪といったことがそれに続くだろう。作業をする人には長靴や軍手が要るだろう。被災地のニーズは日々変わっていく。そうしてライフラインが復旧すると、被災者は時間をもてあますようになる。そのときになって重要となるのが「心の糧」となるものだ。被災地には新聞は届けられているが、絵本や雑誌や本はないらしい。僕は震災以来ずっと家とその周辺にいて、誰に届くともしれぬ声を上げつづけていたが、ようやく「実体」を伴った支援のすべを見つけたような気がした。本なら集められる!

おりしも紙媒体は電子媒体に追われ、衰退・絶滅の危機に瀕している。それに携わってきた者は自分が現代の恐竜にでもなったような気がしていたが、被災地の人びとが本を手に取り、ページをめくる光景をイメージするとき、そこにはiPadはどうも似合わない。紙媒体は、インド洋の深みをのたりのたりと漂うシーラカンスのようにまだ生きていた。生きる意味があったのだ。

岡部さんには1歳になる男の子がいる。彼女のブログを読むと、子どもの存在が親にとってもコミュニティにとっても希望と同義であることがわかる。ブログには被災地の現状とアクションが日々つづられていて、雑ぱくなTVやネットのニュースなんかより、よほどリアリティがある。
このブログを読んでくださっている方にもぜひ一読をお勧めする。

◎岡部慶子さんの「スケッチ日和通信」:
http://sketch-biyori.cocolog-nifty.com/

2011年3月26日土曜日

起ちて咲く花



今日も都内は強い風が吹いている。空は晴れ。

午後、近くの林試の森公園にジョギングに出かけた。僕はこの公園で走るために、ここ下目黒に住んでいると言っていい。昼間走る日もあれば、夜走る日もある。その日の気分と体調に合わせて、走るコースもスピードも変える。石階段の上り下りをしたり、ぶら下がり器具で懸垂をしたり、ベンチで腹筋運動をする日もある。大小の木々や季節の花、芽吹き、紅葉、落葉、陽ざしや雲や小雨や夕日や月や星が僕を倦むことなく走らせてくれる。野良猫もカラスもヘビもカエルも甲虫も友だちだ。

何年もの間、鋼鉄の日課になっていた「林試走り」だったが、震災直後に途切れ、いまは数日置きになっている。地震から4、5日経った日の夕方、買い出しの帰りに公園に行ってみると、いつもは部活の高校生や犬の散歩で集う連中で賑やかな時間帯なのに、がらんとして見慣れぬ場所のようだった。芽吹きを控えた骨格標本のような木々の梢を黒雲が覆い、西の低空だけが陽の名残でオレンジに染まっていた。その空は3/11の夕方に仕事部屋の窓から見た空とよく似ていて僕は少し怖くなった。

2日ほど経った週末(震災から1週間後)の午後に、ちゃんと走るための格好で公園に行くと、そこにはいつもの賑わいが戻っていた。界隈の人たちはその数日のあいだにモードを切り換え、ある程度日常を取り戻すことにしたのだろう。

去年の落ち葉でふかふかになった周回コースで何本かダッシュをした後、まだもう少し走り足りない気がして、ごくゆっくりのジョギングに切り換えたとき、「そうだ、木蓮を探そう」と思い立った。林試の森はもともと都内の街路樹に相応しい樹木を選ぶために内外からいろいろな植物を取り寄せて植えた試験場である。いままで意識していなかったが、きっと木蓮やコブシもあるだろう。ほどなくして、中ぐらいの広場の一隅に白い花をたくさんつけた白木蓮の木を見つけた。昨日来の強風にもかかわらず、花はほとんど散っていない。乳白色の大きな花びらがやわらかく、しかし、りゅうとして立っている。その姿に思わず、句を詠んだ
〈起ちて咲く 花もくれんに 帽子とる〉

2011年3月25日金曜日

木蓮の花に吹く風


(3/25記す)
きょうの最大の話題は、昨日作業中に被爆した東電作業員の続報。作業場の水に含まれる放射性物質の値を測ったところ、通常施設内に流れる水の1万倍の放射線量だったとのこと。「1万倍」が端的に語るのは3号機の破損の度合いだろう。自衛隊や消防庁による連日の注水で、少しずつ安全性を回復していたかに思われた原発問題は、また濃い霧のなかへと引き戻されたかたちだ。

目黒区周辺は午後から強い風が吹いている。咲き始めた木蓮の花が飛ばされていないか、あとで見にいってみようと思う。春を告げるはずの風や雨や雲が、ふだんとは違った趣を見せてわがセンサーに感知される。地震の日から、もののあわれを感じる部分がビビッドになっているので、些細なことにも強い感銘を受ける。変性意識状態ということなのだろう。心の同じ作用が、日常のありふれた行為を色鮮やかにしている。たとえば顔を洗ったり、歯を磨いたりすること。熱い湯を沸かしコーヒーやお茶を淹れて飲むこと。カップの縁からたらすミルク。炊きたてのごはんやトーストしたてのパンを食べること。具のたくさん入ったスープをこしらえることができること。風呂の湯に首まで浸かって心身をほどけさせること。いちいちが特別で有り難いことに思える。

小さなトピックスを拾っておこう。

新聞に載った被災者の声。〈福島市天神町、大和田伊助さん(89)「みなさんに助けられているから、不便だけれど苦痛じゃないですよ。年の割には元気だって言われます。たいした病気をしていないからね。ただ団体生活は初めてだから、早く家に帰って好きなものを食べたいね。被災地以外のあなた方こそ、元気でがんばってくださいよ」(3/23朝日新聞朝刊)。こっちが逆に励まされるとは!

JT(日本たばこ産業)は30日から4月10日までたばこ全製品の出荷を一時的に停止する。震災により、たばこの製造工場が被害を受けたほか、材料も調達しにくくなっているため。(3/25、YOMIURI ONLINE)。たばこよ、お前もか!

今朝、郵便受けに「ハナコ・フォー・メン」が届いた。僕はこのなかで芥川賞作家・朝吹真理子さんのインタビューをやらせてもらっており、編集部から見本誌として届いたものだ。震災の影響で発売日は1日延びたと聞いた。この雑誌のなかに寺田本家という千葉の造り酒屋が取り上げられていた。自然農法と非機械化ですばらしい酒を造っている蔵だ。僕がよく飲みに行く原宿のバー誤解の店主もこの蔵の大ファンで、いつもここの酒を飲まされるが、たしかにしみじみと旨い酒である。誤解店主によると、この蔵も震災による断水で仕事ができない状態であるという。水道が復旧しても、利根川水系の水とコメの安全性が疑われるいま、そして今後、見通しは明るくない。

3/24の追記

宮城、福島、茨城、岩手の陰に隠れてあまり報道されていないが、千葉も大きな被害を受けている。その原因は揺れや津波ではなく地面の液状化。浦安市では最初の地震の日以来、液状化の影響で4000世帯が断水。いまも市の給水車から配られる水で暮らしている。

仙台市内ではきょう13日ぶりにガスの供給が再開された。住民たちは、これで煮炊きができるし、風呂に入れるとよろこんだ。

いまや世界が注目している福島第一原発の3号機で、作業中の職員2名が被爆。「ベータ線熱傷」と診断され、病院で治療を受けている。生命に別状はないとされるが、ベータ線熱傷になると10日後くらいから患部が赤く腫れ、水脹れになり、最悪の場合は組織が壊死するのだそうだ。作業中の足場が水深15㎝くらいの水たまりになっており、その水に含まれていた放射性物質が皮膚に付着したもの。長靴も履かせていなかった東電の危機管理態勢に批判の目が向けられている。

2011年3月24日木曜日

不要のもの

(3/24記す)
今朝も強めの余震で目が覚めた。東京の震度は3。震源地に近い茨城北部では震度5強を記録した。

TVの報道によると、都内で車のフロントグラスなどに黄色い微粉末が付着しているのを見て、「これは放射性物質ではないか?」という問い合わせが役所や関係省庁に多く寄せられたという。この季節、黄色い微粉末といえば花粉か黄砂だということくらい、子どもだってわかる。不安が常識を侵している。花粉と黄砂の混合物から放射能は検出されなかったそうだ。西からの風が運んだのだろう。中国から飛んでくる黄砂だってろくなものは運ばないだろうが、いまそれに言及する人はいない。

スポーツ紙の記事からの引用で取り上げられていたのは、被災地で活動する自衛隊員たちのこと。印象に残ったのは、自衛隊員たちが夜任務を終えたあとに行うルーティンのことだ。彼らは焚き火を囲んで車座になる。その日の活動について互いに報告し合い、目撃した悲惨な状況をシェアして「泣く」のだそうだ。そうやって、その日の悲しみを吐き出してから、それぞれ翌日に備えて眠りにつくのだという。

今回の震災は世界を一変させるほどの破壊力をもっていると僕は思う。あの津波のあとの引き波が、これまでの価値観や旧いスタイルを流し去ってしまったのだ。

人は、いま、自分の職業(職能、天分、経験、社会性)が善か悪か、要か不要か、を問われている。震災直後TVの画面からCMがスポンサーの自粛によって消えた。数日後にはスポンサーCMに代わって、公共広告機構(AC)の広告が民法に流れ始めたが、少ないパターンが繰り返されるのと、CMのラストに入る「エーシー」というコーラスが耳につき、ただでさえストレスが溜まっているのにイライラするということで、その音が消されたりしている。多くの発電所が機能を失ったことで供給電力が足りず、節電が呼びかけられ、夜の街はすっかり暗くなったが、真っ先に消されたのは広告関係の明かりだった。危難のときに最も不要とされるもの——暗くなった街の姿を目の当たりにして、広告代理店とかでエバってた人たちは、自分の役立たずぶりにうろたえていることだろう。

人みなやさし

(3/23記す)
イタリアに住む日本人の友人が、「震災以来仕事に集中できない」とメールに書いていた。
バリ島に住む友人(日本人)は、「震災からPCの前にいる時間が何倍にも増えて、眼精疲労になった」という。

僕自身を含め、震災以来体調がすぐれないと言う人は少なくない。
直接の被災者でなくても、災害のようすや原発の危険を伝える言葉や映像に触れた者はだれでも心穏やかではいられない。

きのうの朝、起き抜けに、カラダの内と外の区別がなくなるような、彼我の境がなくなるような、奇妙な感覚に襲われた。ああ、とうとう致死的な放射能がきて自分は死んでしまったのかと一瞬思ったが、そうではなかった。ふだん思い描いている死のイメージとはだいぶん違っていたが、なにせ死んだことがないからわからない。

状況はきょうも変化している。
一昨日、福島、茨城の農産物(ホウレンソウ、原乳など)から基準値を超える放射性物質が検出され、出荷が停止になった。きょうは葛飾区の浄水場(ここから都内全域の水道水が出ている)の水から基準値を超える放射能が出て(乳幼児に長期間飲ませると甲状腺ガンの危険が増すというレベル)、午後にはスーパーからミネラルウォーターがなくなっていた。
きのう、きょうと首都圏は雨が降っていて、そのせいで空気中の放射線物質が雨粒といっしょに地面に落ち、土地や水の放射線の値を上げてしまったようだ。いずれの場合(野菜も水も原乳も)も、その値はかなり保守的なもので、大量に長時間摂取しないかぎり、健康被害はないということになっているが、わざわざ選んで被爆地のものを食べようという人はいないわけで、該当地域の農業や酪農への被害は図り知れない。海の水からもやや高い放射能が検出されたので、漁業にも大きな被害が出るだろう。

夕方、いつも買い出しに行く目黒駅前のスーパーで、過去に見たことのないほど長いレジ前の行列に並んだ。ちょうど勤め人たちが家路につく時間と重なったということもあったのだろうが、数日前の「買いだめ」のときとは違うインパクトを感じた。

……と、このように書くと、読む人はまたしても心配がつのるだろうが、現場で暮らしているわれわれはそれほど緊迫していない。不思議な感じだが、べつに命をおろそかにしているとか、人生を投げちゃってるとかというのでもない。むしろみんな前向きに生きているようだ。きょうの午後、用事があって某出版社にいってきた。社内は節電で暗く、広告自粛等で打ち合わせが激減しているせいか人影もまばらだったが、人びとはいたって冷静で、タバコをふかして雑談をし、災害ジョークも言って笑っていた。以前は会っても会釈する程度の仲でしかなかった人と震災見舞いの挨拶を交わした。総じて、人が以前よりもやさしくなった印象だ。

2011年3月21日月曜日

忘れないために

2011年3月11日に起こった東北関東大震災の顛末を僕個人の周辺を中心に記録するべく新たなブログを立ち上げた。ここに書くことは僕自身へのメモであり、遠くに暮らす(それゆえに今回の震災に関する情報が薄く、あるいは偏っていて、不安になったり気を揉んだりしているしている)友人・知人たちのための報告である。

震災をきっかけに考えたことや、被災地外の人びとを含む広い意味での「被災者」に少しでも役に立ちそうだと思うことを、ツイッターにつぶやいてきた。ここでは、それらを再編集したものをアップすることもあるだろう。時系列はあまりあてにならないことを予めお断りしておく。

まずは、山田太一編『生きるかなしみ』より引用し、抜粋した短い文章を。〈人生の暗部を見まいとする人びとの楽天性は一種の神経症というべきで、人間の暗部から逃げ回っているだけのことである。目をそむければ暗いことは消えてなくなるだろうと願っている人を、楽天的とはいえない。本来の意味での楽天性とは、人間の暗部にも目が行き届き、その上で尚、肯定的に人生を生きることをいうのだろう。ニーチェが「悲劇は人生肯定の最高の形式だ」といっているのも、そうした意味合いではないだろうか〉