2011年4月26日火曜日

それぞれのストーリー

 昨夜、代々木上原のカフェで友だち4人と飲みながら震災の話をしていた。メンバーのうちの2人(YクンとAさん)は実家が宮城。Yクンの実家は仙台市内で難を逃れたが、Aさんの実家は松島で被災した。

Yクン「僕の実家では震災2日目に電気が復旧。オール電化だったから料理もできて、ご近所の人がお湯を沸かしにきたらしい。お袋が弁当屋をやっているんだけど、震災直後に便乗値上げしたと言うんですよ。まったく、あの人、何考えているのやら……」
Aさん「私の実家は海岸沿いの土産物屋。松島は島々が防波堤の役割をしてくれたお陰で、よそよりは被害が少ないけど、3階建ての1階部分は津波でやられました。昔から『松島は守られているから平気』という意識が根強く、それが災いして気が緩んでいた部分もあると思う。町のみんなが避難するなか、私の父は店舗兼自宅に残ると言い張ったそう。建物の3階にいて無事だったからよかったけれど」
 Aさんは震災後1週間ほど実家に帰って家族と会い、津波で泥だらけになった土産物屋の清掃作業を手伝ってきたという。現場でまず感じたのが「臭い」。津波で陸に押し上げられた土砂には少なからず海底のヘドロが含まれていて、乾くにつれて激しい悪臭を放つのだそうだ。重くて臭い土砂は床に均一に積もるのではなく、店の奥の壁に向かって傾斜を成していたとか。土砂の放つ臭気には有害物質が含まれていたらしく、Aさんは喉を痛めてひどい状態で帰京したということだった。
 そうやって個人からしか聞くことのできない具体的な話をシェアしていたら、店のギャルソンのひとりが「じつは僕の実家が福島の相馬で……」と話の輪に加わってきた。
「警戒区域になって立ち入り禁止になる前日の4/21に地元の友だちとガイガーカウンターを持って現地に行ってきたんです。実家のあたりは津波で壊滅していて、家は基礎部分から根こそぎ流されていました。僕らは検問のない山道とかも知っているから、そういう道を走って福島原発まで5㎞のところまで行ってきました(そう言って、iPoneで撮った写真を見せてくれた。瓦礫の山の向こうに原発の鉄塔と建屋が写っていた)。このあたりの放射線量は東京とそれほど変わらないんです。相馬から飯舘に抜けるトンネルがあって、そのトンネルを抜けた途端にグッと線量が上がりました」
 原発周辺の区域を同心円で区切ることの愚は報道でもよく言われているが、一般人でも簡単に検証できるようなことだとわかる。主に3号炉の建屋の爆発(3/14)で放出され飛散した放射性物質が風に乗り、雨に落とされて、原発周辺域に濃淡のあるまだら模様を作った。いまだに濃い部分は濃く、薄い部分は薄い。原発からの距離とはほとんど関係がないのだ。
 ギャルソン氏は、風力発電のプラントを福島に寄付するという、知り合いのアメリカ人富豪と連絡を取り合って、プラン実現のために奔走しているそうだ。彼には彼の重大なストーリーがあった。こうやって一人ひとりと、きちんと向き合って話していけば、東京にいても被災地の実際が見えてくる。話をしてくれる側も、シェアすることで気持ちがいくぶんか軽くなるってことがあるのだろう。

 帰りに乗った個人タクシーの運転手とまた震災の話になった。彼によると、震災直後は電車のダイヤが乱れたこともあって、タクシー利用者が増えたが、その後は、外国人客が去り、関西などからの出張組が減り、商売アガッたりだそうだ。そこにもまた別の被災談があった。

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