2011年5月8日日曜日

東北の被災地へ(前編)

 5/3から1泊2日の強行軍で東北に行ってきた。
 きょうはそのレポートを書けるだけ書こうと思う。

 被災地に活字やワインその他の物資を送るプロジェクトで連携している花巻の岡部慶子さんはじめ、支援活動をしているみなさんと直接会って情報交換することと、岡部さんたちにくっついていって現地の実情を見てくるというのが旅の目的だった。
 妻が同行した。仙台からは吉田タイスケさん&由樹子さん夫妻が合流。吉田さんはこのブログでも「Yさん」として何度か登場している(ガイガーカウンター!)。彼はライフスタイル誌を中心に旅や食やカルチャーの写真を撮って活躍しているカメラマンで、ふだんはパリに暮らしている。実家が仙台市内で、ちょうど今回は一時帰国中だった。

 僕がふだん乗っている車は20年物のオンボロロードスターで、今回のような旅にはいたって不向き、というわけで妻の実家のパジェロ・イオを借りた。事前に岡部さんと連絡を取り、被災地でカバン類のニーズがあると聞いて、60個ほどのバッグ類を家族(僕の実家の家業はカバンの製造卸)や友人から集めて積み込んだ。妻の実家に眠っていた食器類や友人のHさんが供出してくれたクッキングヒーター、それにうちに眠っていた野球のグローブ4つも持っていった。ボールも必要だろうと、中目黒にある馴染みのスポーツ店にいって小学生向けの軟式ボールを買おうとしたら、わけを知った店主が2つ余分におまけしてくれた。

 東京を朝7時に出ようと思っていたが、支度に手間取って、結局8時前のスタートに。朝のニュースでは、東名や関越の渋滞は報じられていたものの、東北自動車道については特に言及されていなかった。この分だとお昼過ぎには仙台に着いてランチを食べられるだろう——。
 まったくもって甘かった。まだ首都高を走るうちから渋滞が始まり、東北自動車道に入って100キロ進むのに5時間を要した。ぎゅうぎゅうになってのろのろと進む車の列のなかには何台かの自衛隊車両やボランティアを乗せたバスもまじっていたが、大半はレジャーを楽しみに行く車に見えた。数日前からTVでは東北行きについて2つのメッセージが流されていた。

「ボランティア志望者が多すぎて収拾がつかなくなっているので控えてほしい」
「沿岸の被災地以外はふだん通りに機能しているので、ぜひ温泉などの観光地には出かけてほしい」

 サービスエリアのトイレに行くのも至難の大渋滞に身動きを奪われた車のなかで、今回は後者のメッセージが特に有効だったようだなと思った。

 加速したり減速したりを延々と繰り返すうちに車は福島県に入った。もともと車の窓は閉じていたものの、開けて風を通すのがためらわれた。それは放射能からわが身を守る当然の警戒心ではあったが、過剰といえば過剰な反応だった。こういう気分の延長に今回深刻な問題になっている風評被害があるのだろう。
 福島県に入ってひとつ発見したのは、高速道路の路面がひどく傷んでいることだった。橋の前後のつなぎ目部分に多いのだが、段差があって、何度も車が跳ねるようになった。高速道路の路面は滑らかなものだという先入観があるから、ハンドルを握る手に衝撃が走るたびに肝を冷やした。路面には補修箇所がパッチワークのように点在していたから、これでも震災後にずいぶん直した後なのだろう。多くの区間で制限速度が時速50キロにされていて、それも渋滞の一因になっているようだった。

 今回の東北行きを決行するにあたっては、ずいぶん迷いもあった。
 先述のような「行くべき理由・目的」があり、支援物資を運ぶとはいえ、動機のひとつには「この目で被災の現場を見てみたい」という好奇心があった。瓦礫や汚泥の除去を手伝うわけでもない者たちが高々好奇心ごときのために、のこのこと被災地を訪ねていっていいものか。
 一方で、メディアの仕事に携わる者の端くれとして、“事件の現場”を見ずしてその本質は語れないという強い思いもあった。
 もうひとつ、僕を東北行き決行のほうに強く引いたのは、16年前の阪神淡路大震災のときの後悔の念だった。あのときの震災も僕は東京で知った。兵庫県は故郷でもあった。が、結局被災者を支援することも被災地に行くことも何もできなかった。
 職業的好奇心と使命感と悔悟の念が「行っても迷惑なだけ」という危惧の念を凌駕したのだ、少なくとも僕の場合には。
 同行した3人にもそれぞれに迷いと思いがあったと思う。

 岡部さんと会う約束をした北上市内の飲食店に着いたのは午後7時半だった。

 翌朝、6時に起床した。天気は曇り。窓から外を眺めていると駐車場を大きなニホンザルがのっそりとよぎっていった。前夜われわれが泊めてもらったのは〈さん食亭〉というレストランの2階の広間だった。ビジネスホテルや旅館に泊まることもできたのだが、どうもその気になれず、岡部さんに無理をお願いして、その場所を都合してもらった。〈さん食亭〉のオーナーのTさんは、岡部さんが取り組んでいる被災地支援活動のボス的存在で、震災直後からこの店の店内が、物資の受け入れと仕分けと保管の拠点になっていた。僕らが泊めてもらった広間には新品の寝具セットが10人分用意されていた。これからも長く続くであろう活動のためのものだと聞いた。
 7時前には岡部さんとTさんの娘のヒロミさん、ヒロミさんの1歳の息子のユウサク君、いとこのカズエさんが〈さん食亭〉にやってきた。7時過ぎ、われわれ4人を加えた8人は2台の車に分乗し太平洋岸の町、大槌町を目指して出発した。

 小1時間のドライブで遠野の道の駅に着いた。ここでトイレ休憩を取り、ランチ用の食物を買う。内陸部と沿岸部の中間に位置する遠野は震災直後から自衛隊の中継拠点になり、物資がどんどん運び込まれたことから、いまもモノが豊富で、わざわざ花巻や北上から遠野まで買い物に来る人もいるほどだという。道の駅の駐車場には、ボランティアを運ぶ何台ものバスが停まっていた。一般車両もたくさん出入りしていたが、被災地に用がある人たちのものなのか、観光客のものなのかは見わけがつかなかった。館内は人とモノが溢れ、活気があった。おびただしい数の鯉のぼりがポールにも柵にもくくりつけられ、風にはためいていて、カラフルで躍動感のあるそのさまが、またこの場所の活況をヒートアップさせているようだった。

 学生時代から何度か東北には遊びや仕事で来たことがある。多くは今回と同じゴールデンウィークの時期だった。この季節の東北は花々と新緑に彩られ、夢のように美しいことを僕はよく知っている。東京ではとっくに散ってしまった桜が福島や宮城では満開。岩手に来ると、まだ三分咲きから五分咲きで見るものの心をときめかせる。東京では桜の季節には桜の花だけが咲くが、東北では桜も桃も、林檎の花も、木蓮も藤の花もひとときに咲く。広葉樹の新緑のグラデーションをバックに花々が燃えるように咲く山の眺望は、さながら生命の爆発である。清い水が奔流をなす川、田植えを控えて水を満々と湛える水田にも心を洗われる。空気がいいから光がいい。ますます風景がピュアに見える。

 遠野は民話の里として知られる。15年くらい前、ある雑誌で、宮沢賢治がイーハトーブと呼んだ理想郷のイメージを探すという企画があり、僕はこのあたりも取材したことがある。語り部の正部家ミヤさんが方言で語ってくれた物語はいまも胸の奥に残っている。
「むかす、あったずもな(昔あったことですが)……」
 ねずみの団体が参宮ツアーに出かけるが、途中大きな川に出くわす。「先頭のねずみがたぷ〜んと水に入って、みみこぱたぱたおぼこちゅうちゅう……」このねずみの水泳シーンが2匹目以降延々同じパターンで繰り返される。
 カッパ淵でカッパを見たという阿部与一さんにもインタビューした。阿部翁はもうずいぶん前に亡くなってしまったが、彼に描いてもらった夫婦カッパのスケッチはわが家の宝物として大切にとってある。

 お昼用に炊き込みご飯とよもぎ餅を買い込んだわれわれは、再び車に戻って海岸線を目指した。最初の目的地は大槌町。津波で町長と多くの職員が流されてしまい、町の機能が著しく低下してしまったと報道された町だ。本来なら釜石まで国道283号線で出てから海岸線を北上するのだが、そのルートは渋滞が予想されるので、北側の峠を越えるルートを行こうということになった。
 対向車とすれ違うのも困難な狭い山道をしばらく走って標高が上がってくると、さっきまで色づいてみえた風景が褪色し、冬のような色合いになった。この土地はつい何日か前まで麓まで凍てついていたのだ。
 峠を越えた先の山里は彩りが戻って美しかった。点在する農家の前にチューリップやタンポポが咲き、道端には水仙が並んで鮮やかな黄色の花を揺らせていた。被災地を訪れた美智子皇后に避難者が水仙の花を手渡し、皇后がそれを大事そうに東京に持ち帰ったというニュースを数日前に観たのが思い出された。適度に人の手が入った自然美に見とれて、車内の誰もが上機嫌だった。ときどき意識して思い出しておかないと、自分たちの目的地が津波に洗われた被災地だということを忘れてしまいそうだった。

 芝桜が鮮やかな紅とピンクに軒先を染める農家を左手に見ながら通りすぎた直後、視界の右手に場違いな建物が飛び込んできた。自然との調和もなにも無視したような四角い箱の直列——それが仮設住宅であると僕の脳が理解するまでに少々時間を要した。
 瓦礫の原が始まったのはその直後のことだった。
 助手席の妻が突然声を上げて泣き出した。僕と後部座席に乗った2人は「あぁ」とか「うわぁ」といって感嘆詞を吐くばかり。春を謳歌する東北の美観は“ある境界”を境に一瞬にして地獄絵に代わった。
(以下、次回)

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