2011年4月9日土曜日

つらなる思い

(4/8記す)
 3.11から4週間が経った。
 昨夜の宮城県沖を震源地とする巨大な余震は、ようやく少しずつ日常と心の落ち着きを取り戻しつつあったわれわれをあざ笑うかのようなインパクトがあった。最大震度は6強。宮城や岩手の人たちは3.11のときとそっくりな揺れで肝を冷やしたという。僕は東京の自宅でソファに座りTVを観ながら、ときどきうとうとしていた。楽天イーグルスの星野監督が仙台の避難所を訪ねたニュースの途中に地鳴りのようなものに続いてゆっさゆっさと揺れがきた。直感が、東京ではない別のどこかでもっと大きな揺れが起こっていると告げた。星野監督のスピーチは途中で遮られ、画面は地震速報に代わった——。
 きょうになってM7.1に改められたが、昨夜の発表では地震の規模はM7.3となっていた。それだと阪神淡路大震災のM7.2を上回る余震だったことになる。停電した家屋は400万戸。ようやく、残り16万戸まできていた電力復旧は、3.11当時の数字に戻ってしまったかっこうだ。
 夜のうちに、パリで暮らすYさん(実家は仙台)からメールが入った。
〈この怒りは何なんだろうってくらい、腹が立ちました。高速道路も開通して、せっかく仙台市中心部も機能し始めた矢先にこの余震。僕が怒るのは全くの筋違いですが、卑怯ないじめっ子をぶん殴ってやりたい気分です……〉

 花祭り(釈迦の誕生を祝う行事)のきょうは、ふたりの古い友人の誕生日でもある。お祝いのメッセージを書いてもつい震災の話題に触れてしまう。
 ふたりのうちのひとりで、長くバリ島に住むNさんは返信メールにこんなことを書いていた。
〈いま起きている災害のなかでも原発にかかわるすべての状況(ひとことでいえば日本の社会状況)には、やはり唖然としつつ怒りがこみあげてきます。社会全体としてはどうも、臭いモノにはフタ的な事なかれ主義が行き渡っているのではないでしょうか。(略)バリに移住した’95年というのは、やはりそんなふうに日本社会のマズイほうの体質が露骨にふきだした年で、いまの状況と奇妙なくらいに似ているなと感じています。日本が嫌になって逃げだすひとも増えるのかなという気もします。〉
 もうひとりのKさんは、大学生時代、夏休みにイギリスでホームステイしたときに、たまたま滞在先した町が同じで知り合い、以来ついぞ再会はしていないが、互いの誕生日のメッセージだけは絶やさず毎年やりとりしているという世にも稀なる間柄。Kさんは僕と同い年の女性。いまは東京にいるがNYやスイスで暮らしたことがある。彼女の返信メールには、こんなふうに書かれていた。
〈(いまの心理状態は)NYのテロの後、モール爆破やタンソ菌ばらまき事件などで異常な緊張感で生活していたのと同じくらいです。でもNYにいた時は、最悪日本に帰国すればいいという逃げ道がありましたが、今はなく、東京人はここで生きるしかないんだなあと腹をくくっています。といいつつ、福島原発が明日爆発するかも、という13日にはさすがに子供をつれて、いとこのいる倉敷に一週間疎開しました。(略)疎開してみて東京で生きる意味、というと大げさですが、人とのつながりや仕事の在り方などいろいろ考えることができました。そういえば、15年ほど前のヨーロッパでのBSE(狂牛病)でもばっちりスイスにいて、今も輸血禁止の身です。あの時も、ある日を境に街中の肉屋から客が消えるというすごい光景を見ました。2012年の予言ではありませんが、今を生きるしかないなあ……と改めて思いますね。となると、どう生きるかが問題かな。〉

 きょうはここで筆を置こうかと(のではなく、パソコンをスリープにしようかと)思ったところに、花巻の岡部さんからメールがきた。彼女は今朝も停電・断水のなか目覚め、北上市の物資保管場所に仕分けに行っていたそうだ。昨夜の余震も尋常ではなく、道路や家屋の被害は本震のときより大きいと現地の人たちは言っているようだ。明日は大槌町へ物資を届けにいくという彼女。メールの最後は、こんなふうに結ばれていた。
〈沿岸に行く前日はいつもうまく眠りにつけません〉

※メールからの引用については、いずれもご本人から了承を得ています。

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