2011年5月29日日曜日

気持ちを寄せる人びと

 5/20〜5/27まで、雑誌の取材でイタリアのヴェネト州に出かけていた。ヴェネトはヴェニスのある州だ。今回の取材対象はスパークリングワイン、プロセッコの産地、生産者、それに「ヴィラでワインを」というイベント。18世紀に建てられた荘園領主の館に50軒のワイン生産者、世界各国からのジャーナリストが集い、セミナーや試飲会が3日間行われた。
 イタリアのイベントらしく、会場の一隅にエスプレッソスタンドがあった。バリスタにエスプレッソ・マッキャートを頼むと、キビキビとした動きでマシンを操り、コーヒーを淹れ、泡立てたミルクを少しだけ垂らして出してくれた。グラッツェと礼を言うと、どこから来たのかと問う。日本からだと答えると、やにわにバリスタの表情が曇った。
「たいへんなことになったな」
 彼は震災のことを言ったのだ。

 このバリスタに限らず、ワインの生産者もスウェーデンやアメリカやポーランドから来たジャーナリストも、じつに多くの人びとが本題(もちろんワインのことだ)の話もそこそこに悔やみや見舞い、励ましの言葉をかけてくれた。

 イタリアに行く前から、このようなことはある程度予想していた。震災後、仕事やプライベートで海外に出かけた人の多くが同様の経験をしたことを聞いたり読んだりしていたからだ。
 予想はしていたが、実際に彼らの共感や同情や激励の言葉に触れると、僕のほうには予想していた以上の感情が湧き起こった。相手は初めて会う人ばかりである。その人たちが会ってすぐ、まだこちらの名前も素性も知らぬうちに、真剣に心を開き、気持ちを寄せてくれるのだ。
 スマトラやチリやハイチやニュージーランドや四川省で被災した人びとに、僕らはこれほどまで心を開き、気持ちを寄せただろうか?
 そこには彼らの宗教的条件反射というべきものがあったと思う。「汝の隣人を愛せよ」を彼らは感情を込めて実践したのだ。しかし、それだけでは説明がつかぬ気がする。彼らの多くの口から僕は日本と日本人に対する高評と敬意と憧憬を聴き取った。曰く、
「ニッポンは素晴らしい国だ」
「ニッポンの人々はとても有能だ」
「世界最高峰の技術を持ったニッポンでさえ原発事故が起こったのだから、よほどのことだったのだろう」
 根っこにあるのが自動車やバイクを作る日本の製造技術なのか、寿司なのか、アートなのか、オタク文化なのか、サッカーの長友選手なのか、あるいは世界と関わった個々の日本人のふるまいなのか、僕にはわからないが、彼らはとにかくその部分をことのほか強調し、繰り返して訴えるように話したのだ。

 正直言って、僕の心中は複雑だった。自国と自国の民を褒められて嬉しい思いもあった。一方で、この人たちは日本を美化しすぎているし、震災の情報も偏ったものをごく部分的にしか受け取っていないじゃないかという思いもあった。ただそれでも僕の心のベースに流れていたのはポジティブな感情、味わい深い感傷だった。言葉にすると陳腐に響くかもしれないが、それは「ひとりじゃない、つながっている感じ」だった。

 僕は今回の震災と原発事故の被災者は直接の被災地以外にも大勢いると何度も言ったり書いたりしてきた。東京に暮らす僕自身も被災したという自覚があり、それでこのブログのタイトルが「目黒被災」になったことはすでに書いた。関西や九州、果ては外国まで、遠くで暮らす日本人やシンパシーをもった外国人のなかにも心情的被災者がごまんといる。これが今回の震災の顕著な特徴ではないかと漠然と感じてきたが、イタリアで経験したことが、それを確信に変えた。
 地球上で多くの人が同時多発的に「わが事として」被災したのだ。自然災害は毎月のように地球上のどこかで起きているのに、なぜ今回にかぎってそうだったのか? 原発事故がセットになっていたこと、過去のどの災害にも増して映像情報が豊富だったこと……さまざまな理由が考えられるが、最大のファクターは「タイミング」だったのではないかと僕は思う。
 世界は大きなうねりの中にあった。パラダイムは「左・右」や「東・西」から「上・下」へと移り、ゼニカネはマネーという不可視のモンスターに転じた。情報も快楽もデマも人間関係も、法を外れた営みでさえ、たいていの物事はパソコンの前にいながらにして手に入るようになった。商品PRがアートになりすまして街を占拠した。精神性や魂は軽んじられ、聖地は行列をつくって写メを撮りに行くところに成り果てた。便利が化けて、化け物になって豊かさを蝕んでいたことを僕らは薄々気づき始めていたのではなかろうか?
 どこかで誰かがパチンと指を鳴らせて、あるいはガツンと小槌をふるって、このへんてこな世の中をリセットしなくちゃならないんじゃないか? でも、いったい誰がやる? にっくき猫に鈴を付けるのはどのねずみだ?
 M9の大地震はおあつらえの「タイミング」で起こった。倫理観は欠如しているが文学的勘は働く某都知事がそれを天罰と呼んで大顰蹙を買ったが、使った言葉が悪かっただけで、伝えようとしていたことの少なくとも一部は正しかったのだ。

 この「タイミング」を僕らは生かすことができるだろうか? 

 イタリアはチェルノブイリ事故後、6基の原発を順次廃炉にし、現在は原発を持たぬ国だが、じつは原発再開の方向で話が進んでいた。それが福島での事故をきっかけに無期限凍結に再度方向修正した。この話はじつはそれほどきれい事ではなく、実際のところイタリアは電力の不足分をフランスなどから調達しており原発依存度は低くない。
 しかし、例えばチーズの原料となるミルクを採るための水牛を飼育している農場では糞と飼料廃材を用いて電力と熱を得る自家プラントが稼働しているのを見た(余剰電力を電力会社に売ることで年間約2億円の収益があるという)。急峻な山の斜面にぶどう畑がしがみつくように広がるプロセッコの銘醸地、カルティッツェ地区では農家のオレンジ色のテラコッタ屋根に混じって、ソーラー発電の黒いパネルが少なからず見られた。
 彼らのほうが少しだけ前を歩いているようだった。

 イタリアで日本から来た僕に気持ちを寄せてくれた人びとのことをあらためて思い出す。
「たいへんなことになったな」と言ってくれたバリスタのもとに僕は滞在中毎朝通ってエスプレッソ・マッキャートを淹れてもらい、飲んだ。それは小さなカップに半分ほどだけ入った、ささやかで、しかし確かなものだった。この一杯に見合う何かを僕は、この「タイミング」を機に持ち合わせることができるようになれるだろうか?

2011年5月17日火曜日

東北の被災地へ(後編)

(前回のつづき)
 長さ100メートルくらいのトンネルのなかを僕らはSさんに従って歩いた。いまは車が通るようになっているが、震災後しばらくは土砂と瓦礫で埋まり、完全に閉塞されて、もちろん往き来もできなかったという。
 トンネルの出口に立つと、われわれの前は海まで続く瓦礫の原だった。右側に、背後の杉林に向かって上っていくにしたがって狭まる三角形の土地があり、その中ほどに木造2階建てのSさんの家が建っていた。1階部分は津波が突き抜けた痕があり、外側に物が当たって傷んだ箇所がいくつかあったが、構造自体はちゃんと残っていた。
 Sさんは3月11日、この家で地震に遭い、外に飛び出して玄関先で津波を目撃し、それが眼前に迫るのを見てから裏手の杉林に走って逃げて難を逃れたのだった。
 Sさんの家の1軒海側の隣家は津波で消失している。逆に裏手の隣家は建物全体に何の損傷もないように見えた。つまり、Sさんの家の1階に津波の到達ラインがあり、その線が被害の有無を分けたのだ。
 1階の駐車場部分から家のなかにお邪魔させてもらった。台所と居間はすでに土砂も瓦礫も片づけられてがらんとしていた。流しに残った蛇口だけがかつてここに人の営みがあったことを告げていた。壁や柱には大人の胸から目の高さに津波の到達したことを示す染みが残されていた。家のなかは消毒剤の臭いがした。水に浸かった場所は消毒剤を撒いておかないと虫がわいたりするのだそうだ。畳が上げられ、壁に立てかけてあったが使い物にはならぬようだった。
 海側の小部屋に、部屋の大きさには不釣り合いなグランドピアノがあった。津波で浮き上がり、転倒していたのを自衛隊員が起こしていってくれたのだとSさんが教えてくれた。蓋を開けてなかを見ると、鍵盤はすべて揃っていたがいくつかは位置がずれていた。鳴らすと湿った音が出たが、元通りの音色を奏でることができないのは明らかだった。
 家財の大半を失ったSさんが、それでもひとつ貴重なものが残ったのよと見せてくれたのはアルミの箱に入った手紙の束だった。それは今年63歳になるSさんが若かりし頃いまのご主人にもらった手紙だった。
 ピアノは正しい音色を失ったけれど、古い愛の記録は残った——。
 またしても僕は痛感した、被災した人の数だけ事情というものがあるのだということを。

 Sさんの家を辞したわれわれは再びトンネルの薄闇をくぐってお寺のところに戻り、避難所の人たちに再び別れを告げて、車に乗り込んだ。
 先導する岡部さんの車は、僕らに大槌町の被災の中心地を見せるべく海辺の激甚被災地へと向かった。

〈又同じころかとよ、おびただしく大地震(おおない)振ること侍りき〉
 元暦2年(1185年)にあった大地震のことを鴨長明は『方丈記』に記している。〈そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌(いわお)われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にただよひ、道ゆく馬は足のたちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廊、ひとつとして全(まった)からず。或いは崩れ、或いは倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るる音、雷(いかずち)にことならず。家の内にをれば、忽(たちま)ちにひしげなんとす。走り出づえば、地われさく。羽なければ、空を飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ〉

 ビルごと津波に打たれ、見るも哀れな残骸となった大槌町役場の前でわれわれは車を停めた。ここで町長以下、多くの職員が地震直後、対策会議の最中に津波に襲われ、落命したのだ。再び降り始めた小雨のなかへ、吉田さんがカメラを手に車を降りていった。僕も自分のカメラを携えて後を追った。
 どの建物も、建築時の強度の差に関係なく、1階・2階部分はズタズタに引き裂かれ、ガラスというガラスは砕かれていた。破られた壁からは断熱材の残骸が吹き流しのように風にはためいていた。
 僕はぐるりと回って360度を眺めてみた。パーツとしてはどれもニュースなどで見たことのある光景のはずだったが、それらが連続し、果てしなく広がるのは想像を絶するインパクトだった。その場に立って自分の目で見ることは、フレームなしに動画で見ることであり、思いのままにズームインもズームアウトもパンもできる。自分の脳に備わった、その特殊な能力が50日前にそこで起こった災厄をリアルに再現していた。

 大槌町を後にしたわれわれは少し南に下ったところにある釜石を目指した。前述の警察庁の調べによると、釜石市は死亡813人死亡、行方不明約540人、避難者は約3610人である。
 距離にして20キロくらい。大槌と釜石は間にリアス式特有の狭い入り江をひとつ挟んだだけなのに、被害の状況はまったく異なっていた。海底の形状や陸の地形、傾斜などによって津波の暴れ方に違いがあったことがわかる。
 釜石のメインストリートは道の両側に同じくらいの規模の個人商店が軒を連ねる、70年代後半からとくに地方都市に多く見られるようになった典型的な商店街だ。ここを襲った津波は高さ2メートル前後であったらしく、商店家屋の1階部分を壊滅させつつも——ちょうど大槌町で見たSさんの家と同じように——建物の構造と2階部分は壊さなかった。使い物にならなくなった商店街には人影もほとんどない。それなのに、一応商店街の体だけは残っていることが、そこの光景を見る者を余計に落胆させるようだった。

 釜石を走り抜け、われわれが帰路に就いたのは午後2時くらいだった。来たときと反対に、ある境界を越えた途端、あたりは春爛漫の美しい東北に戻った。車を運転しながら、C.S.ルイスの『ナルニア国の物語』みたいだと僕は思った。洋服ダンスの扉を開け、吊されたコートをかき分けるようにして奥に進むと、突然、雪原に出てしまう。そこには妖精が支配する異世界が開けており……
 車内では誰もがわれに返ったような、呼吸を取り戻したような、不思議な気分を味わっていた。そして口々に「来てよかったね」「よかったね」「来ないとわかんなかったね」と感想を呟いた。

 遠野の道の駅に再び立ち寄り、よく混んだ食堂で反省会をした。岡部さんは午前中に行った自宅避難の集落の、きちんとケアがなされていないようすが気になっているようだった。まだまだ支援すべき人、こと、場所はたくさんあり、継続することが大事だと話し合った。
 現地組の4人とはここで別れることになった。前夜顔を合わせてから20時間も経っていなかったが、そこにはすでにタイトな絆があるように思えて、別れるのがつらかった。
        *          *
 数日後、吉田さんからメールが届いた。そこには彼が被災地で撮ってきた写真が収められたアルバムのURLが記されていた。僕はそこにまとめられた写真を子細に眺めてから、吉田さんに返事を書いた。

〈見ていると悲惨で苦しいけど、それでもまだまだ見たくなる。不思議な世界だったね。表現ってなんだろう? 伝えるってなんだろうと思わずにはいられない〉

 すぐに吉田さんからまたメールが来た。

〈そうですね。僕ももっと見たくなります。見たことのない世界に対する野次馬的好奇心なのか、現実をこの目で見て、逃げずに受けとめたいからなのか、写真に携わる「端くれ」としての使命感からなのか…。いろいろな気持ちが混ざっている感じですね。だから、この写真について何かを言おうと思っても、中心になるものがブレていて、うまく言葉が出てきません。ただ、この目で見ておいてよかったという思いは変わりませんが。そういえば、僕はエッセイストとしても伊丹十三が好きなんですが、本の中にこんな言葉がありました。
『逃げないこと 現実を見ること 自分が見た現実に対して正直であること』
 この3つで大抵の問題は解決するもんだ、と。それでいくと、現実を目の当たりにして揺れている自分、というのが僕にとっては正直なスタンスなのかも知れません。この「揺れ」の中に、すごく大切なものがあるような気がするのですが、何だか形がはっきりしません。〉

※吉田さんの写真は、下記から見られます(本人、承諾済み)。
http://gallery.me.com/panda_yoshida#100119

2011年5月12日木曜日

東北の被災地へ(中編)

(前回のつづき)
 津波が家々を押し潰し、流し去った後の映像は震災後いく度となくTVなどで見てきた。見て、すでに知っている気になっていた。そこには土砂や建材や、車や船や漁具や、家具や畳やドアや窓ガラスや、家電や衣類や食器や玩具などが引き波にばらまかれたままの姿で残っているということを、われわれは現地に来る前にすでに知っていたはずだった。
 しかし、目の前に3Dで広がる現実は「知識」や「二次情報」とはかけ離れたまったくの別物だった。うまく伝わるかどうかわからないけど、そこには「意思」とか「感情」のようなものが含まれているようだった。その感情に名前を付けるとしたら、「怨」とか「恨」ということになるだろうか?
 警察庁のまとめによると、5/7現在、大槌町の被害状況は、死亡751人、行方不明が約950人。約5500人が避難している。
 ところが不思議とそこから「死」は感じられなかった。先ほどまで見てきた春爛漫の景色から感じた「生命力」や「希望」はいっさいここにはなかった。その意味で、きわめて「絶望的」な眺望ではあったが、崩壊した家の壁に赤いペンキで×印がされている(それは遺体が見つかったことを意味する)のを見てさえ、「死」の影は色濃くなかった気がする。なぜそうなのか、それは僕だけの感覚だったのか、にわかにはわからない。

 悪臭のことを書いておかねばなるまい。瓦礫の原はいたるところから魚の腐敗したような強烈な悪臭が立ち上っていた。水産加工工場の冷凍庫がやられて、保管されていたものが腐っているというのは報道で見知っていたが、もちろんTVや新聞から臭いは立たない。嗅覚はもっとも簡単に麻痺するというが、これに麻痺するには相当の鈍化が必要そうだ。瓦礫の撤去や泥よけの作業でもこの臭いは大きな障害になるだろう。ましてや、これから気温の上がる季節には……。

 大槌町でまず訪ねたのは津波の最終到達地点から100メートルほど内陸に入った小集落だった。そこは30〜40軒の比較的新しい家屋からなる住宅地区だった。野菜の入った段ボール箱を届けるのを手伝って上がらせてもらった家は、12歳くらいの女の子ひとりを残して誰もが外出しているようだったが、建物も家具もほぼ新品で垢抜けており、壊れた箇所も見あたらず、地震や津波とは無縁に見えた。しかし、集落には商店は皆無で、海岸沿いの商業施設などが壊滅していることを考えると食料も何もストップしていて、外見はふつうの暮らしに見えても中身は激しく被災しているのだろう。午前9時半という時間のせいか、集落にはほとんど人影もなく(ある家の前で大量の洗濯物をたらいで洗っている30代くらいの女性と、別の家の庭で花壇の手入れをしている年配の女性を見たのみ)、5月の朝の陽ざしがさして清々しいようでもあり、しかし100メートル先には例の恐ろしい瓦礫の存在感が厳然とあるという、なんとも奇妙な眺めと気分を経験した。

 つぎにわれわれが訪ねたのは、避難所になったお寺だった。現在、男女それぞれ20数人、計45人ほどがそこで避難生活を送っているということだった。
 お寺は海辺の平地へと下る急斜面の途中に建っていた。路肩に車を停め、入口への坂を下っていくと、軽の乗用車を洗っている若い男性がまず目に入った。避難所で車を洗ってはいけないという法はないが、あまりに日常的なシーンに出くわして、いささか当惑した。
 気を取り直し、「こんにちは」と挨拶すると「こんにちは」と意外なほど軽快な声が返ってきた。
 緊張し、過度に深刻ぶっていたのはこちらのほうだったのだ。被災地に来ることを迷ったのと同様、避難所を訪ねることにも迷いというか不安があった。要望のあった物資を携えているとはいえ、突然押しかけて迷惑じゃないのか? そこに生活があるということは、避難所も当然プライバシーが守られるべき場所のはずである。部外者はそれ相応の手続きとマナーを持って訪ねるべきだろう。

 お寺の入口の前が広場のようになっていて、焚き火を囲んでスチールの椅子が配されていた。入口脇の軒下には水の入ったペットボトルが積まれ、調味料の瓶が並んでいた。われわれの運び込んだ物資よりも一足先に到着したらしい段ボール箱の中身は頑丈そうな靴底をもつ安全靴だった。白いゴム長靴を履いた初老の男性がひとり、箱のなかから靴を取りだしてあらためている。
「そういう頑丈なやつじゃないと、釘とかあって危ないんですよね」と声を掛けると男性は、その通りだと言わんばかりに大きく頷いた。この小さなやりとりで、僕はこの場所への闖入を許可された気がした。
 先に入っていた岡部さんに手招きされ、バッグ類が詰め込まれた段ボール箱を抱えてわれわれもお堂のなかに入った。

 60畳くらいの広さの畳敷きの室内は思いのほか整然としていた。床には寝具がきちんと畳んでまとめられ、人びとが自由に使えるスペースも確保されている。壁際には段ボールやクリアボックスに入った私物が積み上げられている。一方の柱から他方の柱にナイロン紐が渡されてハンガーやタオルが掛けられるようになっている。中央に灯油ストーブがひとつ。統制とか秩序が概ね行き渡っているな、というのが第一印象だった。
 避難者の渉外担当的な役割を担う女性Sさんを紹介された。にこやかでフレンドリーな人だ。われわれが持ってきたものを見せると、Sさんがお寺中に聞こえるような大きな声で「バッグをお願いされた方、届けてくださいましたよ」とアナウンスした。すぐに7、8人の女性が集まって物色が始まった。

 場所の雰囲気に慣れてくると、それまで見えなかったものが見えてきた。一箇所だけ布団が敷いたままになっており、顔色のとても悪い老人が臥していること。お堂のなかには他の避難所で見られるような間仕切りが一切ないこと。ガラス戸を挟んだ外側に廊下のような場所があり、そこにも数人分の布団が並んでいること。
 Sさんの話によると、間仕切りがないのは、避難者たちが誰もその必要を感じていないから。間仕切りについては、戸外の焚き火のところで自衛隊員たちに訊かれた男性たちが同様に「ここは不要だ」と答えていた。これも僕にとっては意外なことだった。ニュースなどで間仕切りがなくて困るとか、間仕切りができてありがたいという話ばかりを聞いていたから。避難所や人によって、ニーズはまちまちなのだ。
 廊下の部分の「別室」については、いびきがひどくてみんなに迷惑をかける人の隔離スペースなのだそうだ。僕もいびきかきだから、避難所に入ったら同じ処遇を受けることだろう。“事情”は無数にありそうだった。

 カバンや衣類の他に、東京から持ってきたものがあった。20代の女性から要望のあった雑誌(「PS」「Spring」「Jille」)。いま流行りの分厚い付録が付いた最新号を受け取った女性はマスクの上の目を輝かせて喜んでくれた。
 被災者とか避難者とかいう言葉は、往々にして個別の人格を埋没させてしまうけれど、実際にここにいる人たちは、当たりまえのこととして、一人ひとりに個性も嗜好も事情もある。支援する側はそのことをつねに肝に銘じなければならない。

 避難所というのは意外と人の出入りがあって忙しい場所である。僕らがいる間にも、マッサージをするボランティア、血圧を測りにきた医療チーム、エクササイズを指導するヨガ・インストラクター、自衛隊員などさまざまな人がお寺に出入りしていた。
 自衛隊は別の隊が2回来た。最初の2人組はバットいっぱいのおにぎりを運び込み(毎日持ってきてくれて助かるとのこと)、人びとから次回持ってきてほしいものの希望を募っていた。メモを覗き見ると、風邪薬の具体的な品名まで書かれていた。そこまで自衛隊がやっているとは知らなかった。後から来た別の2人組みは、避難所の改善要求を人びとに訊いていた。間仕切りについて訊いていたのは彼らだ。避難者からはトイレの下水がつまりがちだから何とかしてほしいという要望があった。

 Sさんから状況を聞き、わずか1時間半ほどだったが自分の目で人びとのようすを見たかぎりでは、ここは比較的恵まれた避難所であるようだった。こっちのほうが快適だからと、小学校の避難所からこちらに移ってきた人もいたらしい。
 ひとつには大きすぎない規模が幸いしたのだろう。元々この近くの顔見知りばかりが集まっているということも有利に働いているかもしれない。

「今回の震災で私は、人は見かけで判断してはいけないとつくづく思いました」とSさんが言う。避難者同士の人間関係の話かと思ったが、そうではなかった。「先週、ある日の夕方、若い男性の2人組が突然訪ねてきたのです。そのうちの1人は眉毛を全部剃っていて、ちょっと怖い感じでした。ものもはっきり言わないし、おっかなかったけど、何の御用ですかと訊ねたら、東京から米やら毛布やらを車に積んできたというのです。すでに米も毛布も足りていると言うと、そんなことを言わないで、積んできたものを見てくれって。私たちを助けようと、一生懸命でやさしいんです。ここの後、釜石のほうまで行くというので、それじゃあ食事をする場所もないからと思って、おにぎりをあげようとしたら、救援に来ているのだから、それは受け取れないって。眉のない子がそう言って、かたくなに拒むんですよ」

 お堂のなかは女性ばかりだった。焚き火のところにたむろしている男性たちの話を聞こうと思って外に出た。
 広場を見守るように立つお地蔵様の手には逆さになった長靴が引っかけてあった。脇の斜面は段々に整地されて墓地になっていた。黒御影石ばかりなのはその石が近くから出るからだろうか。何人か墓参りの人が見える。広場のふちに立って見下ろすと、墓地の下の方から2段は墓石が無惨に倒されていた。そのあたりまで僕が立っているところから垂直距離で3メートルくらいだろうか。そこまで津波が来たのだ。海に向かっていったん下った土地は30メートルほど向こうで再びせり上がって堤になり、そこに単線の線路が走っているのが見えた。その線路は視界の右前方でぐにゃりと曲がり、堤から転落して途切れていた。途切れた線路の先には1台の貨車がゴロリと横たわっていた。それもこれも津波の爪痕だった。
 女性たちと比べて、男たちは無口だった。機嫌が悪いとかふさいでいるというのではない。ときどき口を開いては当たり障りのない話か下ネタのジョークを言い合って笑っていた。たいていの男性がタバコを吸っていた。酒は被災してから血圧が高くなって医者から止められていると言う人がいた。
 土地柄、漁師さんが多いのかと思ったが、たいていはお店を持っていた人たちだった。焚き火を囲んだ車座は、男たちのやり場のない思いでよどんでいた。僕の座った背後に板張りの小屋があって小さな煙突が立っていた。それは大工の男性が廃材でつくった風呂場だった。なかを覗かせてもらったが、充分な広さがありきちんとつくられているようだった。どのようにしてそれをこしらえたかを説明する大工氏は照れながらも誇らしげだった。男たちは役割を求めているのだと思った。

 晴れて強い陽ざしが差したかと思うと、一転曇って、小雨が降ってきた。避難所の人たちは口々に「雨だぞぉ」と言いながら、洗濯物を取り入れたり、濡れそうな荷物を軒下に移したりしていた。僕は再びここに統制と秩序を見たような気がした。

 そろそろお寺の避難所をおいとましようと言いだしたとき、Sさんが自宅を見にいかないかと誘ってくれた。Sさんの家は避難所のそばのトンネルの先にあるということだった。
(以下、次回)

2011年5月8日日曜日

東北の被災地へ(前編)

 5/3から1泊2日の強行軍で東北に行ってきた。
 きょうはそのレポートを書けるだけ書こうと思う。

 被災地に活字やワインその他の物資を送るプロジェクトで連携している花巻の岡部慶子さんはじめ、支援活動をしているみなさんと直接会って情報交換することと、岡部さんたちにくっついていって現地の実情を見てくるというのが旅の目的だった。
 妻が同行した。仙台からは吉田タイスケさん&由樹子さん夫妻が合流。吉田さんはこのブログでも「Yさん」として何度か登場している(ガイガーカウンター!)。彼はライフスタイル誌を中心に旅や食やカルチャーの写真を撮って活躍しているカメラマンで、ふだんはパリに暮らしている。実家が仙台市内で、ちょうど今回は一時帰国中だった。

 僕がふだん乗っている車は20年物のオンボロロードスターで、今回のような旅にはいたって不向き、というわけで妻の実家のパジェロ・イオを借りた。事前に岡部さんと連絡を取り、被災地でカバン類のニーズがあると聞いて、60個ほどのバッグ類を家族(僕の実家の家業はカバンの製造卸)や友人から集めて積み込んだ。妻の実家に眠っていた食器類や友人のHさんが供出してくれたクッキングヒーター、それにうちに眠っていた野球のグローブ4つも持っていった。ボールも必要だろうと、中目黒にある馴染みのスポーツ店にいって小学生向けの軟式ボールを買おうとしたら、わけを知った店主が2つ余分におまけしてくれた。

 東京を朝7時に出ようと思っていたが、支度に手間取って、結局8時前のスタートに。朝のニュースでは、東名や関越の渋滞は報じられていたものの、東北自動車道については特に言及されていなかった。この分だとお昼過ぎには仙台に着いてランチを食べられるだろう——。
 まったくもって甘かった。まだ首都高を走るうちから渋滞が始まり、東北自動車道に入って100キロ進むのに5時間を要した。ぎゅうぎゅうになってのろのろと進む車の列のなかには何台かの自衛隊車両やボランティアを乗せたバスもまじっていたが、大半はレジャーを楽しみに行く車に見えた。数日前からTVでは東北行きについて2つのメッセージが流されていた。

「ボランティア志望者が多すぎて収拾がつかなくなっているので控えてほしい」
「沿岸の被災地以外はふだん通りに機能しているので、ぜひ温泉などの観光地には出かけてほしい」

 サービスエリアのトイレに行くのも至難の大渋滞に身動きを奪われた車のなかで、今回は後者のメッセージが特に有効だったようだなと思った。

 加速したり減速したりを延々と繰り返すうちに車は福島県に入った。もともと車の窓は閉じていたものの、開けて風を通すのがためらわれた。それは放射能からわが身を守る当然の警戒心ではあったが、過剰といえば過剰な反応だった。こういう気分の延長に今回深刻な問題になっている風評被害があるのだろう。
 福島県に入ってひとつ発見したのは、高速道路の路面がひどく傷んでいることだった。橋の前後のつなぎ目部分に多いのだが、段差があって、何度も車が跳ねるようになった。高速道路の路面は滑らかなものだという先入観があるから、ハンドルを握る手に衝撃が走るたびに肝を冷やした。路面には補修箇所がパッチワークのように点在していたから、これでも震災後にずいぶん直した後なのだろう。多くの区間で制限速度が時速50キロにされていて、それも渋滞の一因になっているようだった。

 今回の東北行きを決行するにあたっては、ずいぶん迷いもあった。
 先述のような「行くべき理由・目的」があり、支援物資を運ぶとはいえ、動機のひとつには「この目で被災の現場を見てみたい」という好奇心があった。瓦礫や汚泥の除去を手伝うわけでもない者たちが高々好奇心ごときのために、のこのこと被災地を訪ねていっていいものか。
 一方で、メディアの仕事に携わる者の端くれとして、“事件の現場”を見ずしてその本質は語れないという強い思いもあった。
 もうひとつ、僕を東北行き決行のほうに強く引いたのは、16年前の阪神淡路大震災のときの後悔の念だった。あのときの震災も僕は東京で知った。兵庫県は故郷でもあった。が、結局被災者を支援することも被災地に行くことも何もできなかった。
 職業的好奇心と使命感と悔悟の念が「行っても迷惑なだけ」という危惧の念を凌駕したのだ、少なくとも僕の場合には。
 同行した3人にもそれぞれに迷いと思いがあったと思う。

 岡部さんと会う約束をした北上市内の飲食店に着いたのは午後7時半だった。

 翌朝、6時に起床した。天気は曇り。窓から外を眺めていると駐車場を大きなニホンザルがのっそりとよぎっていった。前夜われわれが泊めてもらったのは〈さん食亭〉というレストランの2階の広間だった。ビジネスホテルや旅館に泊まることもできたのだが、どうもその気になれず、岡部さんに無理をお願いして、その場所を都合してもらった。〈さん食亭〉のオーナーのTさんは、岡部さんが取り組んでいる被災地支援活動のボス的存在で、震災直後からこの店の店内が、物資の受け入れと仕分けと保管の拠点になっていた。僕らが泊めてもらった広間には新品の寝具セットが10人分用意されていた。これからも長く続くであろう活動のためのものだと聞いた。
 7時前には岡部さんとTさんの娘のヒロミさん、ヒロミさんの1歳の息子のユウサク君、いとこのカズエさんが〈さん食亭〉にやってきた。7時過ぎ、われわれ4人を加えた8人は2台の車に分乗し太平洋岸の町、大槌町を目指して出発した。

 小1時間のドライブで遠野の道の駅に着いた。ここでトイレ休憩を取り、ランチ用の食物を買う。内陸部と沿岸部の中間に位置する遠野は震災直後から自衛隊の中継拠点になり、物資がどんどん運び込まれたことから、いまもモノが豊富で、わざわざ花巻や北上から遠野まで買い物に来る人もいるほどだという。道の駅の駐車場には、ボランティアを運ぶ何台ものバスが停まっていた。一般車両もたくさん出入りしていたが、被災地に用がある人たちのものなのか、観光客のものなのかは見わけがつかなかった。館内は人とモノが溢れ、活気があった。おびただしい数の鯉のぼりがポールにも柵にもくくりつけられ、風にはためいていて、カラフルで躍動感のあるそのさまが、またこの場所の活況をヒートアップさせているようだった。

 学生時代から何度か東北には遊びや仕事で来たことがある。多くは今回と同じゴールデンウィークの時期だった。この季節の東北は花々と新緑に彩られ、夢のように美しいことを僕はよく知っている。東京ではとっくに散ってしまった桜が福島や宮城では満開。岩手に来ると、まだ三分咲きから五分咲きで見るものの心をときめかせる。東京では桜の季節には桜の花だけが咲くが、東北では桜も桃も、林檎の花も、木蓮も藤の花もひとときに咲く。広葉樹の新緑のグラデーションをバックに花々が燃えるように咲く山の眺望は、さながら生命の爆発である。清い水が奔流をなす川、田植えを控えて水を満々と湛える水田にも心を洗われる。空気がいいから光がいい。ますます風景がピュアに見える。

 遠野は民話の里として知られる。15年くらい前、ある雑誌で、宮沢賢治がイーハトーブと呼んだ理想郷のイメージを探すという企画があり、僕はこのあたりも取材したことがある。語り部の正部家ミヤさんが方言で語ってくれた物語はいまも胸の奥に残っている。
「むかす、あったずもな(昔あったことですが)……」
 ねずみの団体が参宮ツアーに出かけるが、途中大きな川に出くわす。「先頭のねずみがたぷ〜んと水に入って、みみこぱたぱたおぼこちゅうちゅう……」このねずみの水泳シーンが2匹目以降延々同じパターンで繰り返される。
 カッパ淵でカッパを見たという阿部与一さんにもインタビューした。阿部翁はもうずいぶん前に亡くなってしまったが、彼に描いてもらった夫婦カッパのスケッチはわが家の宝物として大切にとってある。

 お昼用に炊き込みご飯とよもぎ餅を買い込んだわれわれは、再び車に戻って海岸線を目指した。最初の目的地は大槌町。津波で町長と多くの職員が流されてしまい、町の機能が著しく低下してしまったと報道された町だ。本来なら釜石まで国道283号線で出てから海岸線を北上するのだが、そのルートは渋滞が予想されるので、北側の峠を越えるルートを行こうということになった。
 対向車とすれ違うのも困難な狭い山道をしばらく走って標高が上がってくると、さっきまで色づいてみえた風景が褪色し、冬のような色合いになった。この土地はつい何日か前まで麓まで凍てついていたのだ。
 峠を越えた先の山里は彩りが戻って美しかった。点在する農家の前にチューリップやタンポポが咲き、道端には水仙が並んで鮮やかな黄色の花を揺らせていた。被災地を訪れた美智子皇后に避難者が水仙の花を手渡し、皇后がそれを大事そうに東京に持ち帰ったというニュースを数日前に観たのが思い出された。適度に人の手が入った自然美に見とれて、車内の誰もが上機嫌だった。ときどき意識して思い出しておかないと、自分たちの目的地が津波に洗われた被災地だということを忘れてしまいそうだった。

 芝桜が鮮やかな紅とピンクに軒先を染める農家を左手に見ながら通りすぎた直後、視界の右手に場違いな建物が飛び込んできた。自然との調和もなにも無視したような四角い箱の直列——それが仮設住宅であると僕の脳が理解するまでに少々時間を要した。
 瓦礫の原が始まったのはその直後のことだった。
 助手席の妻が突然声を上げて泣き出した。僕と後部座席に乗った2人は「あぁ」とか「うわぁ」といって感嘆詞を吐くばかり。春を謳歌する東北の美観は“ある境界”を境に一瞬にして地獄絵に代わった。
(以下、次回)