2011年4月29日金曜日

コミットメントのとき

 15年くらい前、作家・村上春樹氏は、ユング心理学者・故河合隼雄氏との対談のなかで、このようなことを語った(正確な引用ではなく僕の記憶による大意です。詳しくは新潮文庫『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』を参照してください。あしからず)。

〈いままで僕は世のなかに対してデタッチメント(無関心)できたけれど、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を機に、コミットメント(関わること)でいこうと考えるようになった。〉

 コミットメントの姿勢が彼に『アンダーグラウンド』や『神の子どもたちはみな踊る』を書かせたのだった。

 今回の震災後、僕はしばしばこの“コミットメント”という言葉を思い出す。

 今週、僕と妻は連れだって、映画『ミツバチの羽音と地球の回転』を見にいき、憲法行脚の会主催の脱原発イベントを聴きに出かけた。いずれも、震災前には起こさなかったであろう行動だ。

『ミツバチの——』は、瀬戸内海で進む原発立地計画(上関原発)とそれに反対する祝島の住人の行動を軸に、スウェーデンにおける再生可能エネルギー転換の具体例を加えて構成されたドキュメンタリー映画。福島原発事故以前から一部で話題になっていたが、事故後に観客動員が増えて、追加上映も行われている。詳しくは公式HPを(↓)
http://888earth.net/index.html

 脱原発イベントのほうは、チェルノブイリ原発事故から25年の日(4/26)に合わせて開催されたもので、タイトルは〈いまこそ脱原発の道を歩もう〉。講談師・神田香織さんの講談『チェルノブイリの祈り』、経済評論家・佐高信氏のトーク、神田さん、佐高氏に社民党党首・福島瑞穂さんを加えた鼎談の3部構成になっていた。入場料は1000円。
 神田さんの講談はウクライナ人の原作によるもので、チェルノブイリ事故で消火活動にあたり被曝死した消防士とその妻の凄絶な物語。
 佐高さんは、20年ぐらい前に何度か原稿を依頼したことがあり旧知。久しぶりにナマの姿を見たが、相変わらず元気そうで、軽妙、辛口、やや過激すぎ。政治家や東電のていたらくを一刀両断しながらも、かつては東電にも骨のある経営者がいた話などもしてくれて勉強になった。
 話が逸れるが、佐高氏は「週刊金曜日」で“電力会社に群がった原発文化人25人”を告発・批判しているが、そこには文字通り、原発推進の発言をした人たちに加えて、電力会社がスポンサーをしたCMやイベントに出演した人たち(原発の是非については何も言ってない)までも挙げられて糾弾されている。僕はここで白状するが、その線でいくと、かつて某グルメ系雑誌でオール電化のタイアップページ(2ページ)の仕事を請け負い、原稿を書いた僕も同罪ってことになる。これは弱った、と記事を読んで一瞬当惑したが、自分の心に訊ねてみても後ろ暗いところはない。それは電力会社が提供したTVのお笑い番組に出ていた芸人などと同じ気持ちだろう。批判や糾弾も度が過ぎるとせっかくの毒が効かなくなると思うのだが、どうだろう?
 話は戻って、脱原発イベントのつづき。福島瑞穂さんは、会期中の国会の報告をした。党派を超えていまこそ原発と訣別する方向に動かないと、と力強く語って250人ほどの聴衆の喝采を浴びていたが、もともとがシンパばかりの集まりであることを思うと、少し寂しい気がした。
 イベントのなかほどには、当然のことのように、会場にカンパ袋が回された。そこで集められる義援金の行方も名言されぬままに。わずかな時間で15万円ものお金が集まったと報告があったが、僕(募金に協力せず)はこういう「狎れ」のようなものが、この手の集会を胡散臭くしているのだと思った。せっかくTVや新聞では知ることのできない貴重な情報に触れられるチャンスなのだから、もう少しフツーの人が参加できる配慮というか工夫をすればいいのに。

 脱原発イベントの帰りに「週刊金曜日」の増刊号を買った。書店で立ち読みくらいはしたことがあるが、この雑誌を買うのは初めてだ。
 巻頭に、ルポライター鎌田慧氏の文章があり、とてもわかりやすかったので、引用しておこう。
〈原発を動かしてきたのは、カネだった。カネ以外に、理想や夢や哲学が語られることはなかった。地域にどれだけのカネが落ちるか、それが受け入れの条件だった。農地も漁場も買収された。電力会社と国と県とが、カネにあかして原発の恐怖を圧し潰した。これほどカネまみれの事業はない。電源三法による「原発立地交付金」、周辺には「周辺立地交付金」、政府と電力の「毒まんじゅう」であり、モルヒネ注射。いったん引き受けると、「毒を食らわば皿までも」と増設に期待した。自治体の選挙には、電力とゼネコンとが一体となって、自民党の原発容認候補を推した。電力総連、電機連合、基幹労連などの関連産業の労組が原発推進、ナショナルセンター・連合も原発賛成、その支持政党の民主党も大賛成、与野党癒着、原発翼賛体制が恐怖の原発社会をつくった。〉(鎌田慧「わがうちなる原発体制」、週刊金曜日4/26臨時増刊号)
 
 鎌田氏は弱者の立場に拠ったルポルタージュを多く書いている。僕も一度会ったことがあるが、この上なく純粋で、まっとうな人物である。鎌田氏の著書には『原発列島を行く』(集英社新書)などがある。

2011年4月26日火曜日

それぞれのストーリー

 昨夜、代々木上原のカフェで友だち4人と飲みながら震災の話をしていた。メンバーのうちの2人(YクンとAさん)は実家が宮城。Yクンの実家は仙台市内で難を逃れたが、Aさんの実家は松島で被災した。

Yクン「僕の実家では震災2日目に電気が復旧。オール電化だったから料理もできて、ご近所の人がお湯を沸かしにきたらしい。お袋が弁当屋をやっているんだけど、震災直後に便乗値上げしたと言うんですよ。まったく、あの人、何考えているのやら……」
Aさん「私の実家は海岸沿いの土産物屋。松島は島々が防波堤の役割をしてくれたお陰で、よそよりは被害が少ないけど、3階建ての1階部分は津波でやられました。昔から『松島は守られているから平気』という意識が根強く、それが災いして気が緩んでいた部分もあると思う。町のみんなが避難するなか、私の父は店舗兼自宅に残ると言い張ったそう。建物の3階にいて無事だったからよかったけれど」
 Aさんは震災後1週間ほど実家に帰って家族と会い、津波で泥だらけになった土産物屋の清掃作業を手伝ってきたという。現場でまず感じたのが「臭い」。津波で陸に押し上げられた土砂には少なからず海底のヘドロが含まれていて、乾くにつれて激しい悪臭を放つのだそうだ。重くて臭い土砂は床に均一に積もるのではなく、店の奥の壁に向かって傾斜を成していたとか。土砂の放つ臭気には有害物質が含まれていたらしく、Aさんは喉を痛めてひどい状態で帰京したということだった。
 そうやって個人からしか聞くことのできない具体的な話をシェアしていたら、店のギャルソンのひとりが「じつは僕の実家が福島の相馬で……」と話の輪に加わってきた。
「警戒区域になって立ち入り禁止になる前日の4/21に地元の友だちとガイガーカウンターを持って現地に行ってきたんです。実家のあたりは津波で壊滅していて、家は基礎部分から根こそぎ流されていました。僕らは検問のない山道とかも知っているから、そういう道を走って福島原発まで5㎞のところまで行ってきました(そう言って、iPoneで撮った写真を見せてくれた。瓦礫の山の向こうに原発の鉄塔と建屋が写っていた)。このあたりの放射線量は東京とそれほど変わらないんです。相馬から飯舘に抜けるトンネルがあって、そのトンネルを抜けた途端にグッと線量が上がりました」
 原発周辺の区域を同心円で区切ることの愚は報道でもよく言われているが、一般人でも簡単に検証できるようなことだとわかる。主に3号炉の建屋の爆発(3/14)で放出され飛散した放射性物質が風に乗り、雨に落とされて、原発周辺域に濃淡のあるまだら模様を作った。いまだに濃い部分は濃く、薄い部分は薄い。原発からの距離とはほとんど関係がないのだ。
 ギャルソン氏は、風力発電のプラントを福島に寄付するという、知り合いのアメリカ人富豪と連絡を取り合って、プラン実現のために奔走しているそうだ。彼には彼の重大なストーリーがあった。こうやって一人ひとりと、きちんと向き合って話していけば、東京にいても被災地の実際が見えてくる。話をしてくれる側も、シェアすることで気持ちがいくぶんか軽くなるってことがあるのだろう。

 帰りに乗った個人タクシーの運転手とまた震災の話になった。彼によると、震災直後は電車のダイヤが乱れたこともあって、タクシー利用者が増えたが、その後は、外国人客が去り、関西などからの出張組が減り、商売アガッたりだそうだ。そこにもまた別の被災談があった。

2011年4月23日土曜日

雨の日に、魂について

 10日ほど前の毎日新聞のウェブ版に、被災地の人たちに「いま、あなたの宝物は何ですか?」と訊ねる記事があった。
http://mainichi.jp/select/jiken/graph/takaramono/index.html
 記事の一部を拾ってみよう。
 11歳の蓮斗くんの宝物は、先生が見つけてくれたランドセル。「おじいちゃんがつけてくれたキーホルダーが取れているのは残念だけど、大切にします」。
 伊藤幸さん(86)の宝物は、津波の犠牲になった親戚が以前趣味のパッチワークで作ってくれたバッグ。それひとつだけを持って逃げた。中には財布や薬が入っている。
 木村真喜子さん(48)の宝物は、姉が実家に宛てて書いた封筒の一部。焼け跡から見つかった。
 阿部義雄さん(61)の宝物は、消防隊員だった亡き息子の遺品の腕時計。息子の遺体と対面した父親は泥だらけの時計を持ち帰った。「今もちゃんと動いているんです」。
 佐々木繁男さん(84)の宝物は、胸の中にある思い出。自宅を流され、妻はいまも行方不明だ。
 坂井小雪さん(74)の宝物は、瓦礫の中から見つけた位牌。自宅は土砂に埋まり、諦めかけていたが偶然見つかった。「これだけは持って逃げろと教わっていた」。

“位牌”で思い出すのは、「警戒区域」に指定されて半強制的に避難させられることになった福島第一原発20キロ圏の住民の話。圏内立ち入り禁止が実施される前日(4/21)、TV局の記者に気持ちを訊かれて、まだ圏内に留まっていた年配の男性が答えた。
「本当に困るんですよ、お墓のこともありますしね。お彼岸もちゃんとやってないんだから」
 次に画面に出てきた中年女性は避難先でマイクを向けられ、「とにかく突然のことだったので、何も持たずに出てきてしまって。位牌だけでも取りに行きたいんです」と語った。

 死せる魂とのつながりの証——それが、最高レベルの非常事態においてなお、彼らの貴重品リストの首座を占めていることに僕は衝撃を受けた。

 震災から2週間くらい経ったある日。ツイッターでこんなエピソードを見た憶えがある。保存していないので、詳細はうろ覚えだが、つぶやきの主は被災地で取材中のジャーナリストだったと思う。
〈避難所の人びとの疲労はピークに達していて、だれも立ち上がるのも面倒な状態。ところが、ある晩、ある人が「海のほうでひとだまのような光を見た」と告げると、多くの人がわれもわれもと海のほうに出かけていった。行方の知れない家族の魂かもしれない。たとえひとだまになっていても一目会いたいと思ったようです。〉

 ……と、ここまで書いて、タイピングする手が止まってしまった。きょうは、ブログをうまく結ぶ言葉がどうしても浮かばない。
 魂のことに、軽々にオチをつけることはできない。そういうことだと思う。

2011年4月21日木曜日

ガイガーカウンター

 昨夜はパリから一時帰国中のYさんを囲んで、知り合いの店でワインを飲んだ。Yさんは帰ってくるたびにフランスのエスプリが薫るお土産をくれる。きのうも、キジやウサギの絵が描かれた可愛らしいパッケージのテリーヌや、料理好きのやる気を掻き立てる本格的なブーケガルニがテーブルに並び、みんなが歓声を上げた。
 もうひとつ、今回Yさんが持ち帰ったものがあった。一見おもちゃの携帯電話のように見える、その黄色い外装のポータブル機器はガイガーカウンター(放射線量測定器)。実物を見るのは初めてだ。ウクライナ製で、Yさんが今月初旬に買ったときは270ユーロだったのが数日前には670ユーロに値上げされていたとのこと。測定機の背面に放射線を感知するセンサーがあり、線量を測りたいものの上にかざすと、前面のモニターに数値が出る。さっそくみんなで服の袖やテーブルやワイングラスや額にガイガーカウンターをあて、どきどきしながら数値を待った。何を測っても、毎時0.08マイクロシーベルト前後。報道で見慣れた、ここ数日の都内の数値と変わらない。

 今朝の朝刊で東大教授の藤垣裕子さん(科学技術社会論)が述べていた。
〈(原発事故後)ガイガーカウンターで放射線を測定して、数値をネット上で公開していた人が複数いました。少なからぬ人が、そのデータをもとに、東京を離れるかどうかを判断していたようです。ネットの発達でいろいろな情報が流通するようになって、かえって混乱を招いたという見方もありますが、私はプラス評価をしています。受け身ではなく、自ら測定して、次の手を考えた。市民の科学武装ですね。科学者が出せるのは確率でしかありません。どこまでのリスクを許容するのかを決めるのは社会機構です。同時に、情報をもとに市民が主体的にリスクを判断していく。その両方を協働させて、リスクを管理していくべきでしょう。〉(朝日新聞、オピニオン欄から抜粋)

 一昨日の夕刊には、こんなベタ記事があった。
〈車盗んだ容疑、自衛隊員逮捕 「原発怖くて逃走」〉
 3/13から福島県の郡山駐屯地に派遣され、放射線物質の除染作業の連絡役を務めていた3等陸曹が翌日「原発事故への恐怖心からパニックになって」、駐屯地から官用トラックを盗み、逃走したというもの。
 この男の行動をわれわれは「腰抜け」「職務放棄」と責めることができるだろうか?

 さらに、ここ数日の報道で僕が心痛しているのが、福島市や郡山市、伊達市の小中学校、幼稚園、保育園(計13施設)で、屋外活動が制限されることになったというもの。
 文部科学省が定めた基準によると、該当する13の施設では、校庭や砂場での屋外活動は1日あたり1時間程度にとどめる。手洗いやうがい、帰宅時に靴の土を落とす、登下校時にはマスクと帽子を着用することなどを勧めている。TVには、放課後、教室脇の廊下を使ってダッシュを繰り返す運動部の学生の姿が映し出されていた。学校の廊下は「走ってはならない」場所の筆頭ではなかったのか? 1時間だと、野球もサッカーもゲームをまっとうすることができない。いまの子どもが放課後にどんなことをして遊ぶのかは知らないが、60分のタイマーをかけられ、それなりの放射能を浴びながら「命がけで」遊ばなければならない彼らが不憫でならない。すべての子どもがマスクを着用し、黙して学校への道を歩くイメージは、まるでSFアニメだ。

 Yさんの話に戻ろう。彼は伊達や酔狂でガイガーカウンターを持ち歩いているのではない。彼の実家は仙台。大きな被害こそ免れたものの、心理的な面を含めご家族はダメージを受けているだろう。パリで震災の報に触れたYさん自身も、深く傷ついたことを僕はよく承知している。ガイガーカウンターはYさんの主体性のシンボルであり、これこそが“市民の科学武装”なのだ。

2011年4月18日月曜日

悲しみのプロセス

 数日前、バリ島に住む友人のTさん(女性)がツイッターでこんなことをつぶやいていた。

〈地震から1ヵ月。この間起こった出来事に自分の気持ち、思いはどんどん変化してきた。はじめは、呆然、それから悲しみ……そんで、悲しみの中に日本人の優しさとかいって心の光を探してほっとしたり……そして数日前からは憤り、怒り。今までの自分の無知さ加減も含めて。〉

『すばらしい悲しみ——グリーフが癒される10の段階』(グレンジャー E.ウェストバーグ著、地引網出版)という本がある。著者は病院の嘱託牧師。グリーフとは喪失や死別に際して人が抱く深い悲しみのこと。この本によると、悲しみには段階がある。いわく……
1.ショック状態に陥る
2.感情を表現する(激しく泣くなど)
3.憂鬱になり孤独を感じる 
4.悲しみが身体的な症状として表れる 
5.パニックに陥る
6.喪失に罪責感を抱く
7.怒りと恨みでいっぱいになる
8.元の生活に戻ることを拒否する
9.徐々に希望が湧いてくる
10.現実を受け入れられるようになる

 Tさんのつぶやきを読み直すと、彼女の心の動きが驚くほど正確に、この本に書かれたプロセスをなぞっていることがわかる。Tさんの他にも、最近僕のまわりには「怒り」や「憤り」の感情をもてあましている人が少なからずいる。かくいう僕も、しばしばTV画面に向かって毒突いたりしている。
 このブログの最初から書いてきたように、今回の災害の被災者は、被災地だけにいるわけじゃない。東京にも関西にも九州にも海外にも「災いを被った人たち」が大勢いる。フランスやアメリカやイタリアやインドネシアに暮らす友人たちの無力感や自責の念を知るとき、悲しみというのは現場からの距離に反比例して減じていくものではなく、逆に遠いほど深まることがあるのではないかとさえ思える。
 先ほどの本に書かれた悲しみのプロセスによると、「怒り」の次の段階は〈8.元の生活に戻ることを拒否する〉である。「被災地以外の人は、なるべく普通の生活をして経済を回してくれなくては困る」という言い方が震災直後から過度な自粛への「対語」として繰り返し使われてきた。いかにもまっとうそうなその物言いに触れるたびに「でも本当にそうなの?」「まだもうちょっと先でいいんじゃないの?」と思ったのは僕だけだろうか? 悲しむべきときに、ちゃんと時間を取って悲しむ。感情や感情によって引き起こされる身体反応(泣く、不眠、悪夢、情緒不安定、食欲不振や食欲過多など)をきちんと表に出す。そういうプロセスを無理に短縮しようとしたり、なかったことにしてごまかそうとしたりしていたら、きっと悲しみのプロセスはうまく進んでくれないだろう。8でネガティブなものを出し切れて初めて〈9.徐々に希望が湧いてくる〉に移れるのだと思う。

 一方で、震災後2週間くらいまでの間、メディアで伝えられた被災者の声のなかで僕の耳に一番多く残ったのは、「悲しい」でも「つらい」でも「怖い」でもなく、「くやしい」と「ありがたい」だった。
 くやしさと感謝の念。この2つの言葉には東北人の我慢強くて心根の優しい気質がよく表れていると思う。悲しみのプロセスで「くやしい」に相当するのは6と7だろう。東北人の気質の何かが作用して、悲しみのプロセスの進行を一気に早めたということがあるのだろうか? 
 もうひとつ、しばしば被災地から聞こえてくる言い回しがある。それは、「自分はまだマシなほうだ」というもの。ふだんなら消極的に響くこの言葉が、いまはとても前向きで力強いものに感じられるのはなぜか? これは一考してみる価値がある。

 映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(ラッセ・ハルストレム監督、1985年)は、僕が最も愛している映画のひとつだ。主人公のイングマル少年は、自分に降りかかる不幸の数々を前に「それでも、宇宙船スプートニクに実験のために乗せられた孤独な犬に比べれば、僕はマシなほうだ」と自分に言い聞かせる。

 言うまでもないことだが、生きることはもともと「災い」や「悲しみ」や「死」を内包している。ところがある種のライフスタイルのなかでは巧妙にそういう部分が隠蔽されてしまう。隠されたものに気づかずに一生を終えることは、たとえば東京のような仮想的な街に暮らす者にとっても、とても難しい。

2011年4月13日水曜日

光と闇

 震災後ライトアップを見合わせてきた東京タワーで一昨日の夜から光のメッセージが灯っている。GANBARO NIPPON。昨夜、銀座方面に用があって、車で向かう途中にタワーの脚もとから見上げてきた。
 タワーを運営する日本電波塔に今回のライトアップ話をもちかけたのは照明デザイナー石井幹子さん。メッセージが見られるのは地上150mの大展望台南東側のみ。GANBARO NIPPON の文字は8400個のLED(発光ダイオード)電球でかたちづくられ、電力は太陽光発電でまかなわれている。太陽光発電システムは三菱化学が無償提供したという。(ライトアップは4/16日まで)
 LEDの控えめな光がつづるはかなげな文字には、いつものライトアップとは別の魅力を感じた。脚もとの公園では暗がりに人びとが集い、静かな花見の宴。これまたいつもの賑やかな花見とは違った情趣があった。
 ニュースタイル、案外、イケるんじゃないかな?

 節電・省エネが大命題となる今後の都市デザインを考えるとき、照明デザイナーの果たす役割はとても大きくなるだろう。石井さんはその道のリーダーとして、そのことを充分に自覚して、今回のシンボリックなライトアップを行ったのではないかと思う。
 川柳作家のやすみりえさんが3/22の朝刊で語っていたことを思い出す。彼女は阪神淡路大震災を神戸で体験した。
〈震災後、どのくらいたっていたでしょうか。光を失っていた神戸の街に、明かりのともったポートタワーが見えました。現実を受け入れなきゃと思いながらも、なかなか気持ちを立て直すことができなかった私の心に「復興」という言葉が刻まれた瞬間でした。〉

 話は変わって、このブログに何度も登場している花巻の岡部さんの、今日更新されたばかりのブログから、被災地の最新状況を見てみよう(本人の承諾を得て、抜粋、引用)。

〈気がついたら、震災から1ヶ月経っていました。けれど、現地の方々は「一日も進んでない。津波は昨日のことのようだ」と言います。
 避難所の食事は、いまだに1日2食や、カップ麺・菓子パン・缶詰に偏っているところがあります。それでも、初めの頃よりはずっといい、と言いますが、放っておいていい問題とは思えません。
 あちこちから届く物資も、「全員の分がなければ不公平になるから」という理由で、集積場に積みっぱなしという話も2カ所で聞きました。大きな避難所ほど発生しています。
 人手がないからなのかと思って、自宅避難の方が手伝いを申し入れると「中の人間でやるからいい」と断られたそうです。事情があるのでしょうが、そういったことで確執が生まれるのも心配です。
 避難所宛に郵便や宅急便が個々に届けられるようになってきました。それはとても喜ばしいことですが、ある家族には食料や現金が届き、外出外食もできるようになる。そうじゃない人もいる。そういった格差も広がってきているようです。〉

 こういうレポートを読むと、テレビや新聞から得られる情報がいかに偏り、「きれいごと」になっているかを思い知る。
 疲弊、サボタージュ、嫉妬、確執、格差……多くの人のいとなみと思いが交錯するということでは避難所も外の社会も同じなのだ。「きれいごと」では済まされない、人間の暗部、心の闇、悪といったものが存在するという事実から、われわれは目を背けてはならない。
 光明はきっとある。しかし、道は遠い。

2011年4月12日火曜日

鈍麻する現実感


(4/11記す)
 震災から1ヵ月が経った。最初の地震が起こった14時46分には、各地で今回の地震や津波や火災の犠牲者、避難後の劣悪な環境に耐えられず亡くなった人びとのために黙祷が捧げられた。「震災から○○日」「震災から○週間」「震災から○ヵ月」という節目で時間を区切ることは、当日の生々しい記憶を呼び戻す効果がある一方で、「もうこれだけ時間が経ったのだから、少しはましになっているはず」という根拠のない楽観気分を非被災地の人びとに与える。しかし、現地に入った人の印象を聞く限り、まだまだ被災地は被災したままである。
 そもそも、「震災から1ヵ月」というときの「震災」は、M9の地震とその後にやってきた津波だけのことを言うのであり、その後の無数の余震や避難者の地獄や原発事故やデマや風評被害や生活被災のことは含まれていない。正確にいうなら、「3・11から1ヵ月」なのであって、震災はいまも起き続けているのだ。
 それを如実に示したのがきょうの大きな余震だった。17時16分に起きたその余震は、福島県浜通りを震源地とし、地震の規模はM7.1(4/7の夜に起きた大きな余震と同じ)。福島県の浜通り、中通りと茨城県南部で震度6弱だった。東京は震度4。どこかで、なんらかの新たな被害が出ていることは間違いない。
 それなのに……
 僕は余震が起こったとき、入浴中だった。バスタブにつかって本を読んでいたら、iPhoneのアプリ「ゆれくる」の警告音が聞こえた。まず心に湧いたのはイヤだな、という感情だった。裸だし、濡れているし、だいいちまだ温まってないし、読みかけの本はいいところだった。ずいぶんとわが感性も鈍麻してしまったものだ。壊れてボロボロになった福島原発の真下で大きな地震が起こっているというのに、イヤだなとは思うものの、すぐに遠くに逃げなくちゃとか、集められるかぎりの情報を集めなくちゃとか、思わなかったのだ。
 無力感が、かたちを変えて、育っている。無力感は諦念に向かうときだけ救いがある。無力感が絶望に向かわぬように、自分を支えなくてはならない。

 ツイッターで拡散されていた、被災地で取材するテレビ局のスタッフの話。「本当は現地のリアルを伝えたい。だけど、局からの指示は『明るい話題を出せ』『復興に重点を置け』『ペットで癒しを与えろ』という指示ばかりなんです」これでは、どんどん被災地が“仮想の国”になってしまう。